コーヒーブレイク

エッセイ『手品の周りで』

うえまつまさゆき

2008/11/17 更新


目次

 


その97「スリーカードモンテ」 (2008/11/17)

 最近いろんなマジックの会で、ジャンボカードを使ったスリーカードモンテを良く見かけます。 2枚の黒い絵札と1枚の赤い絵札。よく見せた後で裏返し、赤いカードを黒いカードと入れ替えるのですが、なぜか当たらない。絶対にこっちだと思ったのに、いつの間にか赤いカードは元の位置に戻っている。不思議だなあ?? と、まあ、おなじみのマジックです。

 ところが、最後の落ちとして全部が赤に変ってしまうという演出を全ての演者が採用しています。多分、売ネタの説明書もそうなっているのでしょう。それはそれで大変鮮やかな落ちで、拍手も多いのですが、へそ曲がりの僕にはここが良く分からない。これでは、どの一枚も赤にも黒にもなるんだと言うことを明確に示しているのではないか。つまり、これまでせっせとやってきた「不思議な入れ替わり」のネタバラシをしているに過ぎないのではないかと思うのですがね。
 どこかの会で、ご丁寧にも全部が赤に変った後で、一呼吸おいてまた全部を黒にしてみせる、なんて“アザヤカな”ことをやってくれました。ぱらぱらと拍手されてたけどね。ああ!

 もちろん、演出・見せ方はそれぞれ工夫があって、手品関係者は、ああいつもの落ちだよな、この演者の表現はちょっと面白いけど…なんてしたり顔にうなずいていますがね。中にはノートをとったりして。
 しかし普通のお客は最後にアッと驚いた後、一瞬われにかえり、「ああそうか、なあんだ、全部変るんだ。仕掛けは分からないけど…」と思っていますよね。間違いなく。
 客にとってのミステリーは、どうして移動したんだろう?と言うロマンではなく、あの変る仕掛けはどうなっているんだろう?という、ごく卑小なものになってしまう。

 そもそも、これは「移動」のマジックなのか、それとも「変化」のマジックなのか。最初は明らかに移動(もしくは、不思議な入れ替わり現象)のマジックとして始まったものが、途中から変化のマジックに変質してしまっている。したっていいじゃないか、と言われればそれもそうですが、もちろん、そういうマジックだってたくさんあります。しかし、そういうのは皆意図的にやっているはずです。意図的に構成されていれば当然それなりの演出になり、マジックとしてもつじつまが合う。
 この場合は、いつのまにか不思議な現象が「移動」から「変化」に変質しているってことに演者自身も気が付いていない。だから最後がネタばらしになってしまいます。

 とまあ、えらそうなことを言ってきた割には、じゃあどうして終わればいいんだ!と言う問いに対して気の利いた答えはありません。
 しかし、これは「赤いカードはどこでしょう?」と言うマジックなんですからね。せめて、3枚とも黒いカードになってしまい、赤いカードが消えてしまって、それがどこか面白いところから現われる、なんて形だったら一応「移動・消失マジック」として首尾一貫してるかなとも思いますけど、これだって考えてみればなんだかヘンテコです。まあ、あんまり小難しく考えなくたっていいんでしょうけれどね。受けりゃあいいんだよ!受けりゃあ! え?まあ、ね。たかが手品、されど手品で…。

 ところで、みかめさーん!
 鎌倉でやってくれた新ネタの仕掛けは分からなかったけど。

(つづく)


その1「へたくそ」 (2007/1/8)

 長いことマジックをやっていて、恐い思いをしたことが一度だけありました。若いころ、地方都市に出張した時のことです。めでたく仕事も終り、食事も済んで、もうちょっと飲もうかと言う感じでしかるべく紅灯のチマタに案内された訳ですね。うら若き女性軍に囲まれていまさら仕事の話でもなく、自然マジックを見せるような状況になります。座席はボックスシートになっていて、我々3人に女性が3人ほどついたように思いました。となりのボックスはまた何人かの客が、女性陣とごっちゃになってカラオケなど歌っています。どこにもあるような光景です。

 例によってカードマジックなどをやっていると、わーきゃーとひとしきり受けた後、お定まりの何か教えて、というパターンになります。こういう時はチャンと教えるためのネタが決まっていて、初心者でも出来、そして効果も大きいネタを一つ二つ教えることにしています。たとえば、四つに分けた山の上にいつのまにか四枚のエースが出現するという、摩訶不思議玄妙なトリックですね。良くご存知のとおりです。

 さていざそのネタを教えて、お店の美人がおぼつかない手つきでまねをします。一応同じようにやっていくものの、ネタがバレバレです。これはまあしょうがない。それが終わった時、隣の女性(つまり御同僚ですな)が大きな声で嬌声を上げました。
「きゃー!ヘタクソ!」。そしてその声が響き渡ったまさにその瞬間、となりのボックスのカラオケが歌い終わったのでした。

 「ナニ!」と言う大声がしたかと思うと、スッと我々のボックスの前に数人の男が立ちました。なんと、明らかにその筋のコワモテのかたがたです。えらいことになりました。それまで隣の席なんか、何も気にもしていなかったのです。しかも、瞬時に見受けたところでは、中のえらい人物がまさに歌い終わったところのようでした。

 あ、イエ、コレハ!などなどしどろもどろに、こちらは手品なんです、と説明します。向こうも最初は顔色が変っていたようでしたし、イイカゲンな言い訳は聞かないぞと言う硬い表情でしたが、自分がカードを取り上げてパラパラといじって見せると、半信半疑ながらだんだん納得の顔つきになってきます。どうやらこれは親分の歌をけなされたわけではなさそうだ、と思い始めた若い衆たちは、それでも一応大将の意向を眼で窺がっているようです。えらい人物は
さすがに席を立ってくるようなことはありませんでしたが、どうやら様子で分かったようでした。なにか合図をしたらしく、男たちは引き下がりました。

 イヤイヤ本当に冷や汗をかきましたが、もはや手品どころの気分ではありません。もぞもぞそそくさと引き上げることになったのは、いかにも止むを得ないことでした。

 それにしても絶妙のタイミングの掛け声ではありましたね。

その2「修験道」 (2007/1/15)

 マジックでよく呪文を唱えますね。一昔前はチチンプイプイ、今はアブダカダブラなんて言いますが、どっちにしてもこの呪文で何かが起こるなんて、演者だって見物だって誰一人信じている人はいません。あたりまえだ。まあ、手品における演出のひとつですね。でも、こんな呪文の言葉やら魔法をかける手つき一つでも、手品のうまい下手が如実に現れるから恐ろしいものです。演技ごころ、とでも言うんでしょうか。

 ところで、日本には昔から修験道やら忍術やらで九字を切って呪文を唱える、という摩訶不思議な術がありました。両の手をおかしな形に組み合わせ、「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前」(りん・びょう・とう・しゃ・かい・ちん・れつ・ざい・ぜん)の九文字を唱えながら念ずれば、雲を呼び霧を起こし、果てはガマを呼び、大蛇に変身し、実にどうも、やりたい放題です。
これさえ出来ればねえ。へんちくりんな、なんとかカウントやら、なんとかパームなんてまったく覚える必要はないんだが。

 さて、先日来江戸時代の随筆集「甲子夜話」という本を読んでいたら、その中にこの修験道の呪文に関する面白い話が出ていました。これはその当時の実話です。

 以下、意訳してみます。

『近年のこと、柳原の土手で修験者と武士と口論するうち、だんだん言い合ってついに喧嘩になった。あたりの人も次々集まってくる。そのうち、修験者が言うには、「そちらは武士かもしれんが、こちらには加持の力がある。修験道で祈れば刀も抜けなくなるぞ」
これに対し、武士は怒って言う「ならば祈ってみよ。直ちにそなたを斬ってやる」
修験者は心得たりといって印を結び呪文を唱え始めた。武士は怒って刀を抜こうとしたが、なんと、本当に抜くことが出来ない。

 これは面白いと回りの人垣もどんどん増えてくる。土手にはいろいろな店が出ており、そこの人たちも大勢集まってくる。そうこうするうちに、武士が顔を真っ赤にして力を込めて抜こうとすると、ようやく三、四寸抜けてきた。ところが、修験者がさらに声を大きくして呪文を唱えると、いったん出てきた刀がまた鞘の中に戻ってしまう。

 何度やってみても刀を抜くことが出来ない。武士はとうとう恥ずかしさに、こそこそと人ごみの中にまぎれて逃げていってしまった。周りの見物は修験道の威力に驚きながらも、大いに笑って解散していく。

 さて、商売をやっていた人たちがそれぞれの店に戻ると、皆々その商売物がごっそりと盗まれていた。どうやらさっきの喧嘩は盗人の計略で、修験者も武士もみんなグルだったにちがいない。いや実に奇策であった。』

 はい、おたいくつさま。今日は花のお江戸のミスディレクションについてのお話でした。

その3「それ、知ってる」 (2007/1/22)

 よくあることですが、得意になってマジックをやっているとき、「あ、それ知ってる!」なんて言われることがあります。これはいい気分ではありませんね。
 そりゃあ、我々のやる手品なんて、誰かが知っていたって別に不思議はない。ましてや近頃は、よせばいいのにテレビなんぞでアレコレつぎつぎ種明かしをする偉いマジシャンたちが増えてきています。マジシャン共通の財産であるクラシックスタンダードだって、平気で秘密を明かしてしまってトクトクとしている。手品の種について、ナマ物知りが増えてきているのも事実です。こんな事を言われたとき、オタオタしない場慣れも必要でしょう。

 この、「知ってる」って言うのは、子供は特に多いのですが、私の場合にはこんなこともありました。相手は小学生十人ぐらい。
「このトランプの中から一枚選んでくれる?」って言ったとたん、
「あっ それ知ってるっ!」って大声を出したチビスケがいる。

 当然ながら、こんなのは別に気に留める必要もない。目くじらを立てる必要もない。だいたい、このカードマジックのテイクワンというタイプの場合には、カードを引かせるまで、何をやるか決めてない場合だって多い。「知ってる」もへったくれもあったものではありません。カードがちょっと扱えたら、いくらでも途中から現象だって種だって変えていけます。もちろん、この場合はそんな高級な話ではない。一枚選ばせる手品の易しいヤツをどこかで教えてもらったことがある、と言うに過ぎないのは分かっています。

 「へえ、すごいなあ」なんて言いながら、ドカンとすごいカード当てなり何なりやってやればいいわけですね。子供たちがエーッとなったとき、「これを知ってたの?」って意地悪く聞いたら、ちょっと赤くなって小さくかぶりを振っていました。
かわいいね。
 最近はこちらも少し賢くなって、小学生相手の時には最初にこういうことにしています。
「一つ約束ですよ。知ってる手品でも、アッ知ってるって言わないようにね。他のおともだちが楽しくなくなりますからね。」なんてね。

 いい大人でも自慢げに言い出す人がいます。かなり昔、さるレストランでちょっとしたショーをやったことがありました。リングを持ち出したとき、すぐ近くのテーブルで食事をしていた高名な女優が、私に向かって結構大きな声で言いました。
「ワタシ、このタネ知ってるのヨ!」

 もちろん、こんなときだって、別に恐れ入ったり赤くなって種を引っ込めたりする必要はありません。「おやおや、それはそれは。」と、軽く受け流して予定通り進めていきます。この場合は、テキはリングの秘密を知っているというのは事実でしょうし、リングの場合にはカードと違って、相手の思惑をはずして急に別のネタに変えて行く、なんて言うわけにも行かない。「フン。ナマイキな女め!それにしても有名なワリには、近くで見るとそれほどの美人でもないな。」なんて思いながら、にこやかにつないだりはずしたりするしかないわけですね。

 ステージやサロンでは比較的このようなことは少ないのですが、やはり、客を目の前にしたクロースアップマジックでしょうね。こんな事を言われやすいのは。
 まあ、客によっては本当に知っている場合もありますが、なかには見当違いの“タネ”を声高に披露される方もいます。

「今のはこういうことなんダロ!」。

 こんなとき大切なのは、イヤそれは違っていますよ、などと逆に得意になってしまわないほうがいいようです。これまた、軽く受け流して、そうかもしれませんね?などとニコニコするのが賢そうです。今人気のアンビシャスカードだったら、そんな事を言いながら全く別のテクニックでトップに持ってくれば、かなり面白いことになります。

 しかし、しかしですね。子供はともかく、いいおとなで、手品師の前でタネを話して得意になりたい人は、オレは何でも知っているよ、と言うことで周りから一目置かれたいのですね。周りに女性がいたりするとなおさら(^。^)。だから自分が全くわからない種だったりすると、かえって不愉快になってしまう、ということがよくあるようです。こんなときは次々披露して深入りしないほうがよさそうです。
 まあ、「それ知ってる」に対処するには、結局はそれぞれのキャラクターにあった方法しかないでしょうから、人のやり方を聞いてそのようにやればいいってモノでもないのでしょう。
 やはり場数を踏んで度胸を付け、客の顔を見ながら、ケースバイケースで対応していく事に自信をつけて、自分自身が「海千山千」になっていくしかないのでしょうね。

 ではまた次回。

その4「マジシャン」 (2007/1/29)

 イエスキリストがベツレヘムの厩で生まれた時、東方から三人の博士が訪れました。三人の博士は乳香、没薬(なんのこっちゃ?)、黄金を贈ってイエスの誕生を祝いました。新約聖書でよく知られた挿話ですね。

 この、「博士」と言う訳語には諸説があり、占星術の学者、賢者、賢人、天文学者、預言者などとも訳されているようです。この人たちは一つの特別な星の案内に導かれて、イエス誕生の馬小屋にたどり着いたのでした。(そういえば、映画「ベンハー」の冒頭のシーンがこの三博士の印象的な映像でした。)

 ともあれ、この「博士」はギリシャ語ではMAGOS、英語になってMAGIとなりますが、このMAGIがMAGICの語源であることは、どうやら異論が無いようです。どうも、「マジック」と言う言葉は、エンターテインメントよりも、神秘的な、超自然の力をあやつる特殊な能力と、それを使える人を意味したように思えます。現代の「合理的な技法・仕掛けにより不思議な現象を見せる芸能」とは著しく異なっていたようですね。

 三人のマギが「東方」から来たと言うのも何か象徴的です。今でも西洋でマジックの呪文として定着した「アブラカダブラ」などは、欧米語と言うよりは、東洋(アラブ世界?)の、訳のわからない言葉と言った雰囲気ですものね。

 その後、「マジック」と言う言葉は、中世キリスト教の変質と連動して、黒魔術白魔術などという、おどろおどろしい言葉と共にますます普通の人間世界の娯楽とは乖離していき、異界、ことに悪魔の世界との交流などのイメージが定着していきました。いわゆる「魔法使い」「魔女」とは、魔界の力を駆使して、悪魔に奉仕するために超自然現象を起こす能力者であって、決して「娯楽提供者」や「おちゃめな超能力者」ではありません。お姫様は魔法使いに魔法をかけられて、白鳥やヒキガエルにされてしまいます。「魔法使い」や「魔女」には人間世界に対する「邪悪」の意思があるようです。

 後の「エスパー・超能力者」などと違うところは、自分自身が超能力を持つわけではなく、悪魔の世界の力を使う秘密を身に付けたもの、と言う設定ですね。そして、その彼らの悪魔との交流の儀式が黒魔術です。中世の魔女狩りなどは、まさにこのまがまがしい異界との交流者たちをむりやり洗い出して、人間世界から駆逐すると言う名目の元に行われた、悲惨な迫害の歴史です。

 もちろん、マジシャンたちは一方的に被害者であった訳ではなく、中には高度な技法やトリックなどを使って、自らが特殊な超能力者であるという設定で、うまい汁を吸ってきた連中もいたに違い有りませんが…。(今でも時々いるのかな?)

 こんな暗黒の中世もようやく終わりを告げようとする1584年、マジックというものには合理的なやり方があるので、別に妖術や悪魔の秘法ではないのだという、啓蒙書として現れたのが、かの有名なレジナルド・スコット「妖術の開示」でした。(当時の現物を某所で見たことがあります。古色蒼然、宝物扱いでした。) この書物は別に手品の教科書として書かれたのではなく、不思議な技もきちんと合理的に実現可能なのだと啓蒙するのが目的の書です。

 1584年といえば、日本では豊臣秀吉の全盛時代。徳川家康と「小牧長久手」で直接対決して、大決戦をやっていた年です。こんな時代から、欧州ではマジックに対して既に近代的な研究が、芽吹き始めていたというのは驚きです。急に話が飛躍しますが、日本歴史の中に登場する有名なマジシャン果心居士は、秀吉にもその不思議な術を見せたらしい。とすると、彼はレジナルド・スコットと同時代の人だったんですね。

 よくマジシャンの間で引き合いに出される、ロベールウーダンの言葉として、「マジシャンはマジシャンの役割を演ずる俳優である」というのがありますが、これは訳によっては全く意味をなさない循環表現になってしまっています。あとの「マジシャン」を「魔法使い」と訳してみても、よく見るように、「マジシャンは魔法使いの役割を演ずる俳優である」 となるだけですね。

 なんとなく日本語では同じことを言っているように聞こえてしまうので、これは一体何の意味だ?と、いつまでも議論を呼び、果ては「俳優である」というところに力点を置いて議論を展開するムキもあるようですが、これは全く見当違い。前の「マジシャン」は、現代の手品師のこと、あとの「マジシャン」は中世黒魔術の世界の、異界との交流者のことです。欧米では何の疑問も無い言葉なのに違いありません。

 “奇術は、魔界との交流を身に付けた超人のふりをして演技するものだ”ということですね。魔法も手品も混沌としていた時代から、近代マジックを開拓したロベールウーダン(Robert-Houdin)の言葉だからそれなりの重みがあるので、別に、たいしたことを言っているわけではありません。現代では、一つの演技スタイルとして、そういう表現方法もあるだろうなあ、といった程度のところです。(ついでながら、かの脱出王フーディニ(Houdini)はウーダンにあやかった芸名です。)

 最近は、「奇術」とか「手品」とかいう言葉を使う人はあまり見かけなくなりました。代わって、「マジック」とか「マジシャン」とか言う言葉が、日本社会にも定着してきたようですが、これらは当然ながら、西洋の歴史的文化的背景を背負った言葉なのですね。
 私なんかは、昔ながらの「手品」や「手品師」って言葉の方が、なんとなく好きなんですけれど…。
                          
 今回はこれまで。ではまた次回。

その5「天狗の葉団扇」 (2007/2/5)

 日本には昔から天狗という怪人(?)が住んでいて、「天狗の葉団扇」なる大変便利なツールを持っていました。何しろ、これであおぐと、風を受けた相手が空中に浮き上がってしまうというのですから大変です。つまり、重力が一瞬でなくなってしまうのですね。

 外国には「魔法のじゅうたん」というものがありましたが、これよりもずっと機能が上のように思われます。「じゅうたん」は多分その本体に反重力装置が組み込まれているのでしょう。これに乗らない限り浮き上がることは出来ません。しかし、「葉団扇」のほうは扇ぐだけでいいのですからね。重力キャンセラーを相手の体にくくり付ける、なんていうメンドウな作業は全く必要としません。

「質量があれば必ず重力の影響を受ける」というのは、かのニュートンが言いだしっぺの力学ですが、わが天狗様はニュートンの理論などどこ吹く風、ひとあおぎで重力の影響などなくしてしまいます。また、この葉団扇は、一瞬で人間をとんでもない場所に移動させてしまうなどという機能もあったようです。現代ではテレポーテーションなどともっともらしい名前がついていますが、ナニそんなものはわが国には大昔からあった訳だ。

 ニュートンよりはるか後になって、アインシュタインがコムズカシイ一般相対性理論などを持出して「重力は空間をひん曲げる」と説明しましたが、葉団扇はきっとこちらの方の理論に関係あるに違いありません。団扇であおぐ事で一瞬で空間をひんまげて、はるか離れた先に人間を移動させてしまうという原理のように思われます。

 いわゆる「空中浮揚」や「瞬間移動」などの大ネタマジックをやる方はきっとどこかで手に入れておられるのでしょう。「やつで」の葉っぱでいいんだという説もありますがね。ヒロサカイさんあたりに聞いてみよう。でも教えてくれないだろうなあ。
 数年前、デビッド・カッパーフィールドという英国の古い小説の名前のようなマジシャンが日本に来たとき、彼は東京のステージから一瞬で南の島に移動してしまうというマジック(?)を演じて見せました。ステージから消え去るところは実にアザヤカでしたがね。

 ま、それはともかく、これはまさしく「天狗の葉団扇」を使ったに相違ないと、私はニラミました。この時はその夜にマジシャンの会合などがあり、彼はその席にも姿を見せました。アレ?確かあの時南の島に行ってしまったはずだが?などと余計な事を考えましたが、これは全くこちらの考えが浅い。行くことが出来れば当然帰ることだって出来るはずで、あれからすぐにまた葉団扇をバタバタさせて東京まで飛んで帰ってきたのでしょう。

 この時は友人の中村安夫氏(このホームページの管理者)が堂々代表インタビューに立ちました。しかし質問の中に「どのようにしてさっきの島から戻ったのですか?」というのはなかったな。確か。してみると中村さんも葉団扇の存在に気付いておられたのに違いないね。きっと。

 天狗は昔の日本には沢山住んでいたようなのですが、今はどこに行ってしまったんでしょうね? ひょっとしたら手品師なんぞに化けてテレビに出たり、老人ホームや介護施設などに慰問に行ったりしているのかもしれないな。

その6「デンスケ賭博」 (2007/2/13)

 デンスケと称する街頭賭博があります。妙な名前ですが、この「デンスケ」の語源は、街頭賭博摘発の名人とされた足利署署長の増田伝助に由来するとの由。増田伝助氏が街頭賭博摘発で名前を上げたことから、街頭賭博一般をさしてデンスケというようになったようです。本来「賭博」というのは、フェアな賭け事に胴元が介在し、一定のテラ銭、つまり一種の税金を稼ぐ、というものなのでしょうが、街頭賭博というのは、これと全く違っています。これは賭博というよりはどちらかといえば詐欺の部類に属するものなのでしょう。一見フェアに見えて、絶対に客を勝たせないように出来ているシロモノですね。

 当時街頭賭博にもルーレット式のものなど、いろいろな種類がありましたが(今もある?)もっとも手軽で流行したのが、いわゆる「タバコ当て」で、これがデンスケの代表みたいになりました。煙草の箱3つの内の一つにシルシがついており、これをあちこち動かして、当てさせる、と言うゲームです。この「タバコ当て」が流行ったのは、片付けやすく、逃げやすい、いろんなインチキが出来る、客は正解が分かったように思えるので引っ掛けやすい、などなど、街頭インチキ博打に必要な要件を備えていたからでしょう。デンスケといえばすなわち「タバコ当て」のことだと思っている方もいます。

 これは正式(?)には、「モヤ返し」と、呼ばれます。マジックで言うスリーカードモンテそのものですね。マジックのスリーカードモンテには実にさまざまの方法が考案されているのは御承知の通りですが、こちら「モヤ返し」にも、スリーカードモンテと同じく、技術オンリー、または仕掛けなど、多種多様な引っ掛けの方法があるようです。ただ単に、すばやく動かして幻惑させているだけではないのは言うまでもありません。
 さて、その技術的な方法ですが、マジックとしては、高木重朗さんの「カードマジック事典」には、かのダイ・バーノンのアイデアとして解説されています(313ページ)。プロフェサーは街頭インチキもやったのかな?(^^)。そして更にその元となる基本技法は、1902年刊のアードネスのインチキ博打のネタバラシ本(「The expert at the cardtable」)に出ています。近頃のマジックではあまり見かけない技法ではありますが。

 この「モヤ返し」はインチキ賭博ですから客は決して勝てません。「俺はマジックの目で見るから絶対当てられる」などと思ったら大怪我をします。先に述べたようにタネが一通りではないようですし、彼らには究極の言いぬけがあります。何しろ三つしかありませんから、素人だって手品師だってたまには正解を指差すこともあります。そのときはすかさずサインを出して、周りのサクラが残りの二つに賭けます。「三つ賭けは博打不成立」という「ルール」で、この場合は賭けを成立させません。ま、手を出さないほうが無難ですね。
 って、別にデンスケで無くたって、妖しげな博打やらいかがわしげな遊びなんかに手を出さないほうが、人生無難なのは間違いないけれど。

 でもね。私のひそかな愛読書の一つにこんなことが書いてありました。街頭賭博の話じゃないけどね。
 「遊びは大抵後悔する。でも、遊ばなければ人生もっと後悔する。」って。

 さあさあ、張った張った!

その7「客へのプレゼント」 (2007/2/19)

 ステージに上がってもらったお客に、演技が終わったときに何かプレゼントする、ってのを良く見かけます。今の演技で使ったもの、というのが多いようですが、全く関係ないプレゼントという場合もあるようです。この、「客へのプレゼント」というのが、案外難しいことに思えます。
舞台に上がって演技を助けてくれたことへのお礼と、ちょっとしたプレゼントをさし上げることで演技の最後がふっとなごむ、と言うあたりが狙いなのでしょうけれど。

 先日見た、ある「プロ」の演出です。オリジナルマジックと称していました。
 まず、客席から子供を一人上げます。次に別のお客に頼んで、履いている靴の片方を借ります。借りた靴を子供に渡し、目の上に高く掲げさせます。この時点で、既にあまり感じがよくありません。人の履いていた靴を持たされた子供の身になって御覧なさい。目の前に泥が落ちてくるかもしれないし、第一きたならしい。一方、自分の履いていた靴を大勢の目の前にさらされた人だって、いやな感じですよね。すり減っていたり、私のようにいつもボロ靴を愛用している人間にとってはカッコ悪いしね。
 次にその靴をティッシュで拭く動作をし、それからその靴の中に粉やミルクや卵を入れて、そのあとですね。あるまいことか、靴の中のにおいを嗅いで見せます。おや?いい匂いがするという演出のつもりのようですが、ダメですねえ。あまりのセンスの無さに恐れ入るばかりです。
 最後にその靴の中から、やおら取り出したのが一つのケーキです。これをステージに上げた子供にプレゼントしておしまい。途中の演出もきたならしいのですが、他人の靴の中に入っていたケーキなんぞをもらった人は困ってしまいますよね。

 ある会でしたが、「パン時計」で、半分にちぎったパンをお客にプレゼントしていました。これだってもらったお客は案外困ります。荷物になるだろうし、第一、舞台上の手品師が素手でいじったパンなどをもらったって、あまり食べる気にもならないでしょう。(話のついでですが、「パン時計」は、いつまでたってもむかしの通りにパンで演じられていますが、そろそろなにか面白い別の素材でもないものでしょうかね?)
 また、バナナの皮をむいたら中身が切られていたというマジックがあります。この切れていたバナナを子供にプレゼントして食べさせる、というのも見ましたが、すすめられた子供が戸惑っている場面もありました。まあ、食べ物をプレゼントするときは、もらった方が負担にならないような配慮が必要でしょうね。

 舞台に上がっていただいたお客に、どうしても何かお礼を、というのでしたら、あまり荷物にならないもの、そして出来たら、今やったマジックに多少関係あるもの、そしてもらった方がうれしく感じそうなもの、なんかがいいのでしょうね。
 よくクロースアップなどで、破いて復活したカードや、お客のサインしたカードなどを記念に、といって差し上げるケースも目にします。これもどんなものでしょうね。こんなのは演者にとってもゴミですが、もらったほうにだってゴミですよね。例えば、超有名なマジシャンが、1枚のカードに客のサインと並べて自分のサインを書いてプレゼントするなら、それはそれで意味があるでしょうが、我々ごときがサインした半端なトランプ1枚じゃねえ。ゴミをさし上げているに他ならない。
 まあ、復活したカードだったら、その現物を手に取ってもらって、不思議さが多少増幅するってこともあるかもしれませんが、ゴミには変わりないですよね。なんでもそうでしょうけれど、貰ったほうの身になって、というのはなかなか難しいことのようです。

 昔の人も言っていました。
      ひとにもの 只やるにさえ じょうず下手 (柳多留より)

はい、ではまた次回。

その8「レコード手品」 (2007/2/26)

 唐突ですが、手品と『丸い形状』ってのはいろいろと相性がいいようですね。円形だったらリング、レコード、コインなど、球形だとビリヤードボール、ゾンビ、スポンジボール、はたまた各種の円筒などなど『丸い形』を使った手品は沢山あります。

 さて、ことしの横浜マジカルの発表会では、私はCDを使うことにしました。
レコードのマジックも山ほどあるけれど、どれも単発的なものなので、一つの流れとしてCD(レコード)だけで手順構成するのはなかなか厄介でした。商品アラカルトにならないように、マニピュレーション的な扱いも加えて手順にしてみましたが、どんなものでしたか。(結果として、商品は一つも使いませんでしたけれど)
 ま、それはともかく、最近は昔のレコードなんかを持ち出しても、ある年代以下の人は全く見たことがない、という事態になっています。CDだったら、モノとしては理解されますが、レコードに比べていささか小さいので、ステージでの見栄えは落ちてしまいますね。一方、逆に小さいからこそ出来るハンドリングやら、あのキラキラした光沢を生かすなどレコードでは出来ない表現もありそうです。

 手品師はほとんど気がついていないけど、レコードの手品って、お客は何か不自然な感じを持って見ていることがあるようです。それは、レコード(CD)を使った「色変わり」だろうが「抜き取り」だろうが、どれもこれもディスクを「大切なレコード」として扱ってないところですね。私自身の今回の手順もそうだけど。
 わがクラブの女性マジシャンが、子供たち相手に得意になってCDのカラーチェンジを始めたところ、観客の子供が大声で言ったそうです。
「あっ、そこ触っちゃだめっ!」
 CDの光沢面には触っちゃいけない、って親からしっかり言われているんでしょうね。これは実に正しい。ベテラン女性マジシャンも、一瞬虚を突かれて大いにあせったことでしょう。といって、あの手順はどうしてもレコード面に触るハンドリングだしね。きっと、動揺してあらぬ所で変な色が顔を出したりしたんじゃないかな? 私のように(^。^)

 さて、今回はフィニッシュのイフェクトとして、巨大なディスクに変化させる事を考えました。ちょうど、リサイクルショップで既に過去の遺物となったレーザーディスク(LD)の板を見つけましたので、これがちょうどよかった。CDの板が直径12センチ、LDの板が直径30センチ。カラーチェンジした3枚のCDを、最後に3枚ともこれに変化させればかなり迫力がありそうです。実際、これは相当驚いてもらえたようでした。

 話は変りますが、世の中の記憶メディアの変遷の早さには全く驚きます。今回のLDの板だって、『あの大きなCDは何ですか?』なんて何人かから聞かれました。カラオケや映画を中心に相当普及したものなんだけど、もう世の中から忘れ去られちゃってるんだ。
 レコードがCDになってしまったかと思えば、いつのまにかそのCDもMDに変り、更にハードディスクやらICメモリになり…。これでは手品なんてやるほうはたまったものではありません。開発者の方々も、手品師のことなんかも少しは考えてくれるといいんだけどね(^。^)。

 せっかく大汗かいて覚えたレコードの手順はお蔵入り。次はCD。そしてあっという間にそのCDも過去の遺物となって忘れられてしまう。

 「おいおい、今手品師が、舞台で次々取り出してるのは、ありゃあ一体なんなんだい?」

 「あれかい? どうやらUSBメモリらしいぜ。」

その9「卑弥呼太夫」 (2007/3/5)

 邪馬台国論争と言うのがあります。中国の歴史書に出てきた日本の古代国家はどこにあったのか、と言う学問的な論争ですね。これに乱入する気はありませんが、この、「魏志倭人伝」には、女王卑弥呼は「鬼道に事(つかえ)、よく衆を惑わす」と、書かれています。

 これは一体どういうことを言っているんでしょう? 物の本では、いわゆるシャーマン、巫女の類ではないかと書かれていますが、今の時代ならともかく、古代にシャーマンが人を惑わすものだったと言う認識などがあったのでしょうかねえ。その時代であれば、巫女は神様の重要なご託宣を伝える、聖なる役割だったように思えます。

 「鬼道」と言うのは分からないけど、どうやら「正道」ではないらしい。死者や魔界との交流があるような感じもします。西洋中世の「魔法使い」みたいですね。つまり、巫女ではあるけれど、正しい神様よりも、怪しい世界に仕えていた、ということのようです。それに、「よく人を惑わす」と同時代の書物に書かれているのは、何かやはり、不可思議な現象を見せることが出来たような感じがしますね。ヒミコさんは、案外、日本初のマジシャン手品師だったのでは? そして、この女性マジシャンが古代日本国の首長を勤めていたのでは?

 しかし言ってみれば、「人を惑わす」人が国の王様だったんだ。なんだか不思議な国ですねえ。手品師や占い師が首相や王様をやっている国なんてのは聞いたことがありません。あまりほかの国の信用は得られないような気がするけれど。「魏志」だって、あんまり敬意を払った表現じゃないみたいだ。

 もっとも、逆に考えてみれば、一国の首相だの大統領だのなんて仕事は、「人を惑わす」力がなければ勤まらないような気もしますね。なんか、そんな気がする。幸いにして、私はこれまで清く正しくツツマシク生きてきて、「首相」なんていかがわしい商売はやったことがないから、良くはわからないけれど。誰も頼みにも来ないしね(^。^)。

 ところで、卑弥呼太夫のレパートリーはなんだったんでしょうね。
家来やら大臣どもを広場に集めておいて、六枚ハンカチを振り回したり、大中小のロープです、なんてやってた訳じゃあなかったのでしょうけれど…。

 そしてその内、女王卑弥呼の墓が発見されたら、例の「親魏倭王」の金印と一緒にカップとボールなんかが発見されたりしてね? 考古学者には分からないだろうなあ。

ハテこれは一体なんなんだ?

その10「魔法のお城」 (2007/3/12)

 今度は遠い昔の栄光の記憶です。

 アメリカ出張の折、マジックキャスルを訪れる機会に恵まれました。社会人になって以来、すっかりマジックから遠ざかっていましたが、少しずつカードやコインの感覚を取り戻しつつあった頃でした。1989年6月、まだYMGに入る前です。

 この高名な手品のお城はハリウッドの一角にそびえています。
玄関を入ると、そこは小さなホールになっており、どこにも入り口が見当たりません。ここで、「オープンセサミ!」と大声を上げますと、正面の、本がぎっしり詰まった大きな書棚がゆっくりと動いて行き、ぽっかりと入り口が開けます。早くもわくわくしてきます。
6時や7時では、まだ向こうの感覚では早すぎて、何も始まらないのですね。中のレストランでワインなど飲みながら、ゆっくりと食事を取ります。同行の日本人たち(会社の人)に、ここが世界中のマジシャンたちにとっていかなる場所なのか、したり顔に説明します。コース料理のメニュー表を記念に頂戴しましたが、これが後で役に立ちました。

 ここの全体の構成は大きく三つに分かれており、ステージ、パーラー、テーブルの三種類のマジックを同時進行でやっています。出演者の表が張り出されていますから、観客は適当に好きなところに行って好きなマジックを見たり、またバーで飲んだり出来ます。
まずはテーブルマジック、このときはマービンロイでした。例の電球のマジックで有名なおっちゃんです。もういい齢でしたがね。角砂糖を使ったチンクアチンクや、アンネマン原案の封筒のマジックなどが印象的でした。

 ステージマジックの前に、バーで一休み。ウイスキーなど飲んでいると、バーの一番隅っこに白髪の老人が座っています。その前の席で一人の若い人がカードなどをやっている。そちらに席を移しながら、はっと思いましたね。これは?ひょっとしたら?
若い人のカードは、これがまたとんでもないマジックです。私だって手品に付いてはいくらか知っている。それが間近で目を皿のように凝らしても全く分からない。老人は腕を組んで黙って見つめています。こちらが感嘆の声を上げると、若い人がにっこりとこちらを向いて「アーユーマジシャン?」と聞きました。私はさすがに「うう」とか口篭もってしまいましたが、同行の友人が「イエース。フラムジャパン」とやってしまった。

 若いマジシャンはにこっと笑って、老人のほうに手を差し伸べながら「プロフェッサー」
と、紹介します。ああ、やはり、ではこれがあのダイバーノン氏その人だったのだ!ダイバーノンが世界でただ一人、プロフェッサーと呼ばれるマジシャンであることぐらいは知っています。現代マジックの巨人、伝説の人、世界中のマジシャンの偉大な教師、そんな人を前にして突っ立てなんかいられません。思わず膝をついてしまいます。なんか、横に膝まづいたような格好ですね。正直、まだ存命だったのか、と言う感じでした。

 「君は日本人なら、テンカイを知っているか?彼は私のいい友人だ。」などといいます。

「ミスタテンカイイシダはもう随分以前に亡くなりました。」

「うんそうだった。テンカイは死んでしまった。」と、悲しそうです。

「ミスタータカギを御存知ですか?ミスタータカギには教わったことがあります。」などと言うと、「うんタカギも良く知っている。君も何かやって見せろ」と言います。

 ダイバーノンに見せるマジックなどあるはずがありません。いえいえとしり込みしますが、まわりの友人たちがたきつけます。カードを取り出し、震える手で何かやりました。

 何をやったかって?それは絶対内緒です。

 バーノンは小さく一言、「グッド」と言いました。後で聞いたら、この頃はもう昔と違って、何を見てもグッドと言うのだそうです。「もう一度」とは言いませんでしたね。(^。^)
ともあれ、ここでさっきのメニューを取り出し、そこにサインをもらうことに成功しました。私の名前もしっかり書いていただいて。

 前ですごいカードマジックをやっていたのは、なんと、ジョンカーニー。これまた大天才マジシャンです。それからしばらく、ジョンカーニーのとてつもないクロースアップマジックを、まさに目の前で次々と見せられることになりました。コインもカードもすごかったな。なんと、クロースアップでシルクまで。どれも圧倒的な迫力です。

 感動一しきりの夜でした。後で調べると、このときダイバーノンは95歳、それから3年ほどして亡くなりました。そのころは私も、もう一度マジックの世界にアクセスし始めていましたので、日本でも伝えられた訃報に接しました。

 “Toウエマツ シンシアリー ダイバーノン”とサインされたマジックキャスルのメニューは、私の書棚に今も大切にしまわれています。

その11「さとり」 (2007/3/19)

 客の心の中を読み取ってカードを当てる、という演出を良く見かけます。

 客が自由に一枚のカードを選び、演者は全く分らないはずのカードを「強く思って」もらって、その「脳波(?)」などを受け取ってそれを言い当てます。どなたも何通りかの方法をご存知でしょう。「超能力」の世界では「マインドリーディング」などと言うようです。

 でも、本当に人の心の中が読めるんだったら、別にカード一組なんかモゾモゾ持ち出さなくたって、ただ頭の中に思い浮かべてもらってそれを当てればいいワケなんですがね。わざわざ選んだり隠したりしてもらうなんてのは、考えてみれば余計なことなんだが。

 「あなたが今思い浮かべたカードはハートの7ですね?」

 「ええっ? い、いやあの」

 「本当はそうなんだけど、違うって言おうとしましたね?」

 「えええっ? あ、あ、」

 まあねえ、見ているほうだって「実際はあのトランプを使って何かのトリックをやっているんだな。どうして当たるのかは分らないけど。」と思っているわけで、別に本当に自分の心が読まれているのではない事を承知の上だから、かまわないのでしょうね。

 ほんとに人の心が読めるやつなんかがいたら、アブナクテしょうがない。そんなのは直ちにとっつかまえてロウヤにでもぶち込んでおかなければ。

 ちょっと余談ですが「強く思ってください」という日本語は何かこなれていない、妙な感じのする言葉ですね。私は最初こういわれたとき、どうすりゃいいんだ?って思っちゃった。「強く握る」なら言葉に違和感はないけど、「強く思う」の反対は「弱く思う」だろうし、どっちもなんかまともな日本語じゃないね。といって、ほかに適当な言葉も思いつかないんですが。英語の表現をこなれないまま訳して使っているのかしら?

 ところで、日本には昔から人の心を読むという妖怪がすんでいました。「さとり」という、外見はサルに似た生き物の話はどこかで読んだことがあるでしょう。

 山中で出会ったきこりに対して、「今こわがっているな! 心を読まれたと思ってあせっているな! 逃げようと思ったな!」などと、次々と考えた事を言い当ててしまいます。

 しかし、本当にこんな能力があったら、いやですねえ。とても人間の社会なんかに生きてはいられない。仕事の付き合いも友達や近所づきあいも、はたまた恋愛なんぞも、何一つ出来やしません。家庭生活だってブチコワシだ。身につけてもいい「超能力」もあるけれど、こんな超能力だけは決してほしいとは思いません。

 こんな能力を持って生まれた「さとり」は大変不幸な存在で、最後は世をはかなんで山奥などに行ってしまうようです。「超能力」のお話の中には、それを持っているがために不幸になる、というパターンは多くありますが、「さとり」なんかその代表格みたいです。
やはりマインドリーディングはまがい物こそよろしけれ、ですよね。

 くたびれたカバンからくたびれたバイシクルをもそもそ取り出し、下手なフォールスシャッフルや、ボトムグリンプスなどをもたもたと行って

「さて強く思ってください。あなたのカードはダイヤの5ですね。アハハハハ!」

なんてやってるぐらいがよろしいようで。

その12「戦国のマジシャン」 (2007/3/26)

 以前の回で果心居士(かしんこじ)に付いて触れましたが、こんなの聞いたことがないと言う人もいたかもしれません。レジナルド・スコットはともかく…。

 さて、今回は、と。
戦国時代に、果心居士という妖しい術を使う人物がいました。日本の歴史に登場するマジシャンです。当時のいくつかの書物に、実際にその妖しい事跡が記録されているようですが、以下、江戸時代に書かれた書物から該当部分を直訳してみます。

【松永弾正久秀(注:戦国の武将。信長に反逆して滅ぼされる。これもまた戦国の怪物)が多門城主であった頃、果心居士と言う幻術使いがいた。(城主が)暇な時には話し相手などをした。ある夜、久秀は「私は戦場で白刃を交える時でも、かつて一度も恐ろしいと思ったことはない。そなたは試しに幻術を使って私を恐ろしがらせることが出来ようか」
と言った。

 果心居士は、「では周りの武士を遠ざけて、灯りも消してください」と言うので、火を消し、近習を遠ざけ、久秀一人で(外の見える座敷に)座っていた。果心居士はつと立ち上がって廊下を歩いて行き、庭の方に行ったように見えた。急に月が暗くなり雨が降ってきて風の音がし出した。物悲しく不気味な感じがしてきて、なにやら不安な心細いような気がしてくる。どうして急にこうなったのだろうと外を見ると、遠くの廊下に、たたずんでいる人がかすかに見える。雲の合間に見えたその姿は、細くやせた女性で、髪を長くたらしている。やがて女性は久秀の近くに歩み寄って前に座る。

 「誰か」と言えば、大きく息をついて苦しげな声で「今宵はおひまそうですね。周りに人もおらずに」と言うのを聞くと、なんと五年前病死してつらい別れをした妻の姿である。久秀はさすがに恐ろしくなり、こらえきれずに「果心居士、やめよやめよ」と大声を出すと、女性はたちまち居士の声になって、「ここに控えております」と言うと同時に、女の姿はもとの果心居士になっている。ふと見れば雨など降っておらず、月も晴れ渡っている。

 どのようにしてこんな風に人を惑わすことが出来るのかと、松永久秀も驚き入った。
この居士の術は、奈良あたりの老人も実際に見たと(筆者が)子供の頃に聞いた。元興寺の塔の上にどこから上ったのか、九輪の頂上に立って衣服を脱いでふるい、また着て腰掛けて下を見たりしていたそうだ。以下略】
    【醍醐随筆】(中山三柳 寛文十年刊)より

 まあ、この文章自体はあとになって書かれたものですし、誇張も聞き違いなども混じっているのでしょうが、他にもいろんな術を見せたことが記録されているようです。しかし、仮に上に書かれた事に近いことが有ったとして、これはとても物理的に可能なトリックのようには見えません。催眠術か何かかもしれません。もともとは奈良興福寺の僧侶であったようなのですが、いつか「外道」にこころざし、妖しい技を使うようになったとも書かれています。まあ、何かしら、当時の人には理解不能なマジックを使えたのでしょうね。私も早く「外道」にこころざそう。清く正しく美しいマジックなどでなく…。

 果心居士のほかにも、同時代に武田上杉の間で働いた加藤段蔵という妖術師の存在も伝えられています。いずれにせよ、日本歴史の中には、何らかのトリックを芸能としてではなく、実地に使える妖しき人物たちが跳梁していたようです。
これを読んで頂いているマジシャン諸氏も戦国時代に生まれていたら? 多分真っ先に殺されるだろうな。

「この、ビタ銭などを用いて人をたぶらかす、面妖なやつ! 直ちに首を刎ねい!」
なあんてね。

その13「玉手箱」 (2007/4/2)

 このサイト管理者の中村安夫さんの「スティングのマジック玉手箱」はマジシャンのあいだで大人気のページです。累計アクセス36万以上だとか?

 さて、「玉手箱」って言うとその語感から、なんとなくいろんな不思議なものや面白そうなものが一杯に詰まった箱っていう感じを持ちますよね。でも、実際はそうではなく「玉手箱」というものは開けてはいけない箱、開けるとややこしい事態になる箱でした。

 基本機能はだいたい理解できます。うかうかと過ぎ去った時間を一瞬で思い出させてくれる機能を持っているようです。タイムマシンともちょっと違う感じですが、別に特殊相対論なんかがなかった時代でも、時間は延び縮みするモンだって事を昔の人は知っていたんですね。えらいものだ。

 まあ多分、それはそれでそういう機能があったとして、いったい乙姫様は何でまたそんなものを命の恩人にプレゼントしたのか?それも、こういう機能なんだよと取扱マニュアルをきちんとつけて渡すならともかく、あけてはいけませんよといって渡すとは何事か。

 だいたい人間は、開けてはいけないと言われれば開けたくなるのは当たり前で、ハアさようですかといって大事に抱えこんでいる人間なんてあるはずがない。言ってはいけないよと言われればしゃべりたくなるし、こんな事をしてはいけないと言われれば、余計にやりたくなる。言われなければ別にしたくないことまで、言われたからかえってやりたくなるのが人情です。

人に言うなというその人が 人に言うなと人に言う(どどいつ)

 賢明な乙姫様がそんなことが分らなかったはずがない。

 さて、私の解釈はこうなんです。
 浦島太郎はなんと3年間も無為徒食、毎日うまいものを食って鯛や平目のダンスを見て、あとは乙姫様との愛情生活(あれ?夫婦になったんだよね?たしか)。ま、最初のうちはいいでしょうが、いくらなんでもこんなのは十日もすれば普通は飽きて来そうです。私だったら言いそうだ。

「なに?今日もヒラメのダンスだって?なんかほかにないの?」

 別に稼ぎに行かなくたっていいけれど、手品の勉強やらナンやら、頭や手を使う仕事は竜宮城の中にだっていくらでもありそうなものだ。

 乙姫様も最初のうちは命の恩人だからって太郎さんを大切にしていたんでしょうが、そのうちに若いみそらで毎日何もしないで、ただただ飲み食いだけしてアハアハ笑っている亭主(?)にうっとうしくなったに違いない。特に話が面白い人だってわけでもなさそうだし。

こりゃあよっぽど変わった人だわ。幸い家に帰りたいって言い出したし、この際帰してしまおう。そろそろお互い倦怠期でもあるしねえ。
だったら、ご自分が飲み食いしていた時間がどんなものだかお知りになるといいわ。この人、ひとはいいんだけどへそ曲がりのところがあるから、開けてはいけないって言って渡したほうがいいかもね。

これ侍女や。例の箱をお持ち! 

中にスモークメーカーを忘れずに入れとくのよ。この間「ハンク・リー」から取り寄せたでしょ!

 別に浦島太郎の境遇になりたいとも思いませんねえ。

 スティングさんの「マジック玉手箱」には面白そうな情報がどっさり詰まっていますがね。決して開けてはいけません。ってえと、ほら開けたくなったでしょ!

その14「犬は忘れ物をしない」 (2007/4/9)

 近頃忘れ物をすることが多くなった。

 家を出て十メートルばかり行ってから、ハタと気がついて戻ってくるなどはまだいいほうで、バス停で長いこと待っていて、やっとバスが来たら定期券や財布を持ってないのに気づき、泣き泣き家に戻った事だって何度かある。

 家の玄関を開けると、玄関番シェルティタロー君の顔がそこに見える。一体どうしたのだ?と言う顔をしておあいそで吼える。平成七年生れ、この犬はいのししだから、来年になったら年男、人間にしたら相当の高齢だ。フム、君は年をとっても忘れ物をしないのだな、とこちらは妙に感心する。

 犬が散歩に出かけてから、ハウスの中に何かを忘れて取りに戻る、なんてことは聞いた事がない。目的のとおりにお出かけをして、その都度目的をきちんと果たして悠然ご帰館になる。忘れ物のために無駄足であったなどということは、絶対に、ない。してみると、犬というものはどうやら私よりは賢いようだ。そんな気であらためてご尊顔を拝すると、こころなしかいくぶん思慮深そうにも見える。

 いや実際に賢いのだろう。漱石家の「猫」のように、毎日ぐーたらしているようでありながら、日夜深い洞察をめぐらしているのかもしれない。ウチのご主人は毎晩ビールなどという愚劣なものをしこたま飲んで、えらそうな顔をして奥方に講釈をたれているけど、ナニあれは別に何かが分っているわけじゃない。イラク情勢だって知事選挙だって、たいしてモノを知らないのに演説したがるのは悪いクセだ。奥方もたまには感心して聞いているような顔をしているが、おおかたは聞き流しているのに違いない。

 この賢いシェルティに、あるとき右手の指先を咬まれてしまった。状況は双方に非がある様でもあるが、と言って、裁定を求めて尻を持ち込むところもない。傷そのものは何日かして直ったが、困ったことに右手人差し指の第二関節が完全に曲がりきらない状況になってしまった。

 得意の「ミリオンカード」には一応支障がないけれど、これで「シンブル」は全く出来なくなった。指先に小さなキャップが出現、消えたり増えたり色が変ったり、学生マジックでは定番のスライハンドである。私自身はステージではやったことはないけれど、学生時代以来、それなりの技法と手順を一応身に付けてはいる。いつかブラッシュアップしてステージにかけてやろうと、カラフルなものやジャンボなどと集めていたシンブルコレクションは、かくて全くの持ち腐れ、ただの不燃ゴミと化した。

 しかしこうなったらもうこっちのもので、仲間にいくらだって吹くことが出来る。
ボクは手を咬まれる前は、シンブルは上手だったんだけどねえ。いや実に残念だ。見せたかったなあ。ほんと。

 え?そうでしたか?
 などと、決して忘れ物をしないタローが、上目遣いにこちらを見ている。

その15「未来を知る」 (2007/4/16)

 プロフェシー:予知 「これから起こる事を予知する」能力。そして、その「予知」を形に表したものが「プレディクション(予言)」です。これから選ばれるカードや数字などを予言しておく、そしてそれが見事に当たる、というおなじみの演出です。マジックに興味のある方なら、どなたでもいくつかの方法をご存知の通りです。

 さて、世に言う超能力の種類もいろいろあるけれど、一番お金になりそうなのがこの『予知能力』ですね。「マインドリーディング」などの能力などがあっても、こんなのは人間不信になって落ち込んじゃうだけだろうし、「テレキネシス」なんかは土方作業にはいいかもしれないけど、あんまりお金儲けは無理そうだ。しかし『予知能力』だけはほんとにあったらいいですねえ。競馬でもカジノでもやりたい放題だ。絶対に金には困らない。別に1年も2年も先のことじゃない。ほんの数分間先に起こることが予見できればいいだけのことです。

 数年前、秀逸な詐欺師の実話がありました。喫茶店を借りて客を集めて集団ノミ行為。全員で競馬放送のラジオを聞きながら、その場で馬券を賭けて取ったり取られたり。ところが、この放送がクセモノで、実際には数分前に行われたレースをテープにとって、これを数分遅らせてラジオで流している。たった数分のことだから誰も気がつかない。自分だけはこっそりリアルタイムの結果を知っていて大もうけ。
こんなことがほんとにあったんだから驚きます。やられたほうもうかつだけど、考えたやつのあまりの頭の良さにアタマが下がります。つまり、未来を知るんじゃないんだ。現在を過去にしてしまう。たった数分間、タイムマシンに乗って過去に帰って賭け事をやっているようなものです。やはりアタマなんてものは、ただご大層に首の上に乗っけとくだけではお金は儲からない。
こういういんちきやら、間抜けだか賢いのかわからない詐欺泥棒の話は大好きで、かなりの収集・切抜きを集めています。

 ところでこれ、どうしてつかまったんだっけ?
 こんなのは詐欺罪って成立するのかしら?そもそもノミ行為による賭けそのものが違法なんだから。例えば、博打場でいかさまサイコロを使ったら、博打の外にいかさまであることも詐欺って事になるのかな?法律の知識はないけれど、どうもそんなことはなさそうな気がする。だました相手からは手ひどい仕返しを受けるだろうけれど。

 占い師などをやっているやつよりよっぽど気が利いています。テレビに出てくる占い師や、街角で店を開いている占い師たちは、まさにご本人が占い師をやっているって事から、先のことは全く読むことが出来ない人なんだなと思ってしまいますね。つまり、本当に先のことが占える人は占い師なんかやらないで、気の利いたことで稼いでいるんだろうね。人に言ったりしないだけでね。

 さて、私の好みで選んだカードの予言マジックベスト3は
「インビジブルデック」(バーノン?)
「ナンバーズカル」(M.Maven:前田知洋訳でマジックランドから発売)
そして「スパークルド・アイ」( 庄司敬仁:旧バージョン)、です。
3つとも原理が全く異なるところも、その表現している現象もすばらしい。どれもこれも、始めて見たときはひっくり返るほど驚きました。
でもね、みんなみんな、大昔の事になってしまいました。もう一度、何かでひっくり返るほど驚きたくなったな。また若いころに戻って。

その16「テレパシー:遠隔知覚」 (2007/4/23)

 「離れているところの物事が(見ないで)知覚できる」という能力だそうです。「千里眼」とか、「透視」とかも同じような意味でしょう。こんな能力があれば、別にインターネットもテレビも必要ありませんね。グータラ寝ているだけで世界中の事が分ってしまう。
明治の御世に、御船千鶴子と言う人騒がせな女性が出現したことは有名です。大学の先生やら何やらが寄ってたかって、本当に千里眼能力があるのないのと大騒ぎをしたらしい。この女性は別に金儲けをたくらんだわけでもなさそうで、何が目的だったのかわからないけど、こんなのが出てくるとおっちょこちょいが騒ぎ立てるのはいつの世も同じです。
数年前評判になったホラー小説「リング」は、この女性をモデルに書かれたんだとか。

 さて、この「千里眼」能力で実際にメシが食えたという例があります。大正時代の初期、ロシアからやってきたゼーゲル夫妻というのが、この透視術を演じて日本全国巡業公演(?)をしました。
 夫人は舞台中央で目隠しをして座っています。その夫君ゼーゲル氏が客席に入り、客の持ち物などを借りて、それを舞台の夫人が次々と言い当てる、という実演です。
ダンナが客から借りた時計を持ち上げる。
 「ハイこれが透視できますか?」
 「時計のようです。」
 「では腕時計でしょうか懐中時計でしょうか?」
 「腕時計ですね。」
 さらに、男物か女物か、そしてそのバンドが皮か鎖か、その色は何色か、全てぴたりと言い当てる。あまりの不思議さに当時大変な人気を呼び、大新聞も大きく「驚異の超能力者」として取上げたそうです。(ところで、ご夫妻はまさかロシア語でヤリトリしたわけではないのでしょうね(^。^))

 ともあれ、これはマジックとして公演した訳ではありません。「世紀の大奇術」などとは言っていません。あくまでも「超能力・霊交術の実演」でした。今は同じ事をやっても、あまり感心もされないでしょうけれど。当時はケータイやらリモコンやらも全く存在しない時代ですからね。世間みんなの知識が増えるって事は困ったことです。実に。
 もちろん、これは別にエレクトロニクスなどとは無関係に、テクニックとしては昔から日本にもあったものです。テキヤなどの秘密技法だったのでしょう。博打場などでも大いに有効であったものかと思われます。若い頃覚えたインチキ麻雀の世界では「通し」と言っていました。まさか、「透視」との掛け言葉じゃあなかったのでしょうけどね。

 では私のテレパシーカードマジックを一つ。
 客のデックを使います(もちろん、レギュラー)。それを軽くシャフルして客Aに渡し、演者(私)は後ろを向きます。客Aがデックを広げていき、客Bが一枚選びます。(あ、AもBもサクラではありません)。これを皆で覚えて中に戻し、客Aに再びシャフルしてもらいます。全てが終わったら私が振り向いて、直ちにそのカードを当ててしまいます。
 何年ぶりかで会った昔の手品仲間の前でやって見せ、ケムに巻いたことがありました。ああ悪い事したなあ。

その17「大道芸(1)」 (2007/4/30)

 野毛大道芸フェスティバルが今年もやってきます。面白いですねえ。
 子供のころから、お祭りの夜店とか大道芸とか、なんかいかがわしそうなものが好きでした。夜店といっても、ちゃんとした飴やお菓子などには関心がなく、もっぱら怪しげな「くじ」(絶対に大当たりは出ないようになっている)やら、大道詰将棋(5手詰めぐらいに見えて実際は30手ぐらいかかる)、いろんなものが透けて見えるというヘンテコな筒(これは、女の子を覗くと警察に捕まるよ、などという売り文句でしたね)それに、チンドンヤなどに関心が集中していました。

 ああいうのって、なにかわくわくしますね。親にもらったわずかな小遣いを全部いんちきクジに使ってしまって、はずれ商品の粗悪な鉛筆を何本か持ち帰ったときは、こっぴどく怒られました。
 しかし私は田舎で育ちましたから、なかなかそんなものにお目にかかる機会は多くはなかった。近所の八坂神社の祭日は本当に楽しかったものです。もしも浅草あたりに生まれていたら、ひょっとしたら四流芸人なんかになっていたかもしれません。そしたら今頃は落ちぶれて、ドサ廻りのキャバレーの、司会なんかやっていたかも…。
 寅さんの映画などを見ると、それも良かったかな、なんて思うときもあります。山陰のほうの小さな町で、夜遅く舞台が終わって、いささかくたびれたオネエサンと、古びた宿屋でタクワンつまみに熱燗をやるなんてのもねえ。悪い人生じゃなさそうだ。(今からでも遅くはないかな?どなたか付き合います?)

 ヨーロッパの街角でもよく大道芸人を見かけました。歌や演奏が多いのですが、ときおりマジシャンも見かけました。日本の縁日のようにネタ売りもありましたね。チャチなスベンガリデックを買ったのは確かデュッセルドルフの街角でした。いい年でまだこのネタを知らなかったのですね。すごく不思議に見えました。我ながらかわいいものです。
 また、手品を見せて投げ銭を求めるスタイルもありました。そしてそれらの大道手品には一種のパターンがあるようでした。もちろん、周りを囲まれても大丈夫なこと、それに、一回の手順が2,3分で組み立てられていること、これを繰り返しやること。つまり、通行人に足を止めさせることと、帽子に投げ銭を入れさせるタイミングが最も重要なのですね。タダで、通りすがりの人に楽しんでもらうためにやっているわけではありません。タバコのタンギングだけで稼いでいるひげのおっちゃんもいました。これもまた、ヨーロッパの寅さんなのでしょう。

 今売れているSさんというプロを始めてみたのも野毛の大道芸でした。なんか、カード当てみたいな事をやっていましたが、それほど人だかりはしていませんでした。ああいう所で、カード当てなどは、人を集めるには難しそうですね。一方、何年か前、名前を知らない外人の手品師がサムチップひとつで奮戦していて、こちらは大勢に取り囲まれていました。私の目からはサムチップは丸見えでしたが、ほかの客は驚いていましたね。へえ、こんなんで見えないんだ!って感じでした。

 さて、大道芸を改めて志そうかな?投げ銭稼いで屋台の熱燗など一杯。
 というわけで、次回はその出演記。

その18「大道芸(2)」 (2007/5/7)

 さて、前回は大口をたたきましたが、見るとやるでは大違いの一席。
 某所某日、サクラ祭りの商店街の遊歩道、近くには定番の焼きそばやら焼き鳥なども出店しています。
 実際にやってみて、イヤア、これは思ったよりはるかに難しい。普通に我々がチンタラやっているマジックなどとは、全く別物と考えたほうがよさそうでした。
 まず、第一に、客足をとめて人だかりを作るってのが容易なことではない。通りすがりの人が一瞬チラッと見て、オ、これは面白そうだと思わせなければ、人は立ち止まってくれません。この点ではジャグリングなどはまさにうってつけ、ボールやらバトンやらをぽんぽん放り投げている姿を見て、すぐに周りに人だかりが出来ます。

 だいたい、手品なんてものは集中してしばらく見ていなければ何が起こったのか、ナニが一体不思議なのか、全くわかるわけがありません。もちろん、一瞬芸なるものも沢山ありますが、これだって集中して見ていられるからこそ出来る技であるわけです。
 それに、音楽の問題があります。
 手品はだいたい「しゃべり」か「音楽」のどちらかですが、道路でいきなり胴間声を出してしゃべり出すのもなかなか容易ではない。いやがんばってやりましたけどね。
 一方、音楽となったら、とにかく大きな音を出せる特別な装置がないとどうにもならない。ジャグリングの人たちは皆さんセミプロなんでしょう。専門的なアンプ、スピーカなどを用意していました。私が持っていったのは小さなラジカセ、音量最大にしても路上ではほとんど聞こえないと言ったアリサマでした。

 私より前に、某プロがシャベリオンリーでマジックをやりましたが、とにかく客が少ない。拍手もパラパラ。なんか、やりにくそうです。私のときもこんなんかなあ、なんて思っていたら、次のジャグリングになったら俄然周囲に人の山です。そしてこのジャグリングが終わると、集まっていた客は満足してサアッと散って行きます。
 さてそこにノコノコ出て行って、ま、いろいろやったのではありますが、所詮観客は子供が7,8人、それに外人の家族が2家族ほど、せいぜいそんなところでした。あまり気合も入らないしね。用意したものの半分ぐらいをやって、チャチャっと終わりにしてしまいました。ウーン。敗退だね。こりゃ。

 その後、横浜の大道芸マジックをじっくりと見ました。こちらはきちんと主催者がアレンジして人を集め、前のほうは座らせるシートを用意したりしている。これで大分違いますね。そしてやはり音響設備とマイクは必須。手品としての演目はまあ似たりよったりともいえるのですが、やはりジャグリングをそれぞれ合間にはさんでいるのが多い。
 それに、決定的なのは演出スタイルが全く違う。メインコンセプトは「マジックの不思議さ」なんてものでは全くなく、あくまでも「笑い」なのでした。
 アクの強いしゃべりや身振り、それに客いじり、言ってみれば、「マジック」を素材にした笑いの演出です。これは、実際「不思議さ」の演出よりははるかに難しい。前回触れたSさんというプロや、今回私の前に出たTさんというプロも、どちらも「笑い」を主体にした演技スタイルじゃないから、大道はなかなか苦戦していたわけでした。

 つまり、大道芸で必要なのは手品のうまい下手や、演目の選定なんかじゃないんだな。必要なのは唯一、大道に合った演技スタイル。これに尽きるようです。
 「大道芸」は、これはこれで完璧にプロフェッショナルの世界である事を改めて認識しました。チョットばかり手品を知っているからって、投げ銭で一杯やれるなんて、夢のまた夢のようだ。脱帽。

その19「念写」 (2007/5/14)

 心の中に思った事を写真のフィルムに感光させる能力のことだそうです。
これもまた随分昔からアレコレと宣伝され、その特殊な能力が真面目に実験されたりしてきました。例の人騒がせ女性御船千鶴子氏もやられたそうな。じっと思いを集中すれば、まだ感光していないフィルムに丸や三角のマークを焼き付けることが出来る。しかし、これは随分限定された特殊な超能力ですね。何でまた写真のフィルムなのか?
 つまり、光によらずに思念の力によって、フィルム上のハロゲン化銀を変質させる能力を持っているようなのですが、はてこれは何で銀にだけ有効なのか?どうもヘンテコな能力ではあります。この、念写の超能力を持った人はデジカメになったらどうなるんでしょうかね?今度はCCDの電荷をコントロールすることなんかも出来るのかしら?思っただけで荷電粒子の行動を制御できるんだったら、別に念写などという意味のない行為でなくたって、もっとあれこれ世のお役に立つことがいくらでも出来そうだ。

 こんなことが出来るってヘンテコな人物が現れると、それを真面目に研究実験しようなんておっちょこちょいが現れるのはいつの世も同じです。テレビ局なんぞは、いつも立派な肩書きを持ったおっちょこちょいを探し出す能力に長けているようなので、要注意ではありますね。
 ついでながら、近頃のマジック番組を含め、「あるある」などテレビのでたらめぶりはひどいものですね。おっと、「近頃」じゃないか、失礼しました。

 さてこの念写がマジックに応用されました。そのテレビでもやられたようですから、一般の人にもこの現象はおなじみです。一枚のカードを選んでもらい、それを頭に思い浮かべてもらいながらポラロイドで写真を撮ります。ゆっくりと画像が現れてくると、客の頭の上にそのカードが映し出されている、って言う寸法ですね。
 これまた「思念」を写すんだったら、別にカードでなくたって、りんごでもヒョウタンツギでもヌードでもいい訳なんですが、なぜかいつもカードを使います。
 それに、本来「念写」は思い浮かべた人に超能力があることに成っているはずですが、この手品の場合には、どうも写真を撮った演者の方に特殊な能力があるという演出になっているようで、なんか、多少おかしな感じではあります。しかしま、いずれにしても撮られた客は相当びっくりするようです。

 知人がどこかのマジックバーでやられたらしく、その知人の顔と頭の上に一枚のカードが写っている写真を大切そうに私に見せてくれました。
 「イヤアおどろいたヨ。君は(って私のこと)マジックが得意のようだがこんなすごいのは出来ないだろ!」 ってな感じでした。
こういう時って難しいですよね。どんな顔をしていればいいのか。
せっかくこんな不思議な現象を見たと言って喜んでいる人に対してねえ。「イヤこういう道具がマジックショップで売ってるんですよ。買えば誰でも出来ますよ。」なんてアカラサマに言うのは興ざめだろうし、やった人にも失礼のような気もするし…。
といって、これはすごいですねえ、こんなの見たことない、なんて大げさに相槌打つのもなんとなく気が利かないし、ヘエそうですか、なんて無感動にシレッとしてるのもしらけるしね。

「うん。これはすごいね。」ってひとしきり感心した後、別れ際にでも
「でもボクだって出来るんだよ。」にこっと笑ってね。

実は買ってはないけれど。高すぎたからね。現象のワリに。

その20「マンゴー樹」 (2007/5/21)

 インドの伝説となったストリートマジックに、ヒンズーロープトリックとマンゴー樹トリックがあるのは良く知られています。このうち、「ヒンズーロープ」はどうも伝説が膨れ上がったものであるらしく、路上から空中に伸びて行ったロープを登って子供が天空に消えてしまった、などという現象を実際に見た人はいないようです。1875年、当時のインド総督が莫大な懸賞金を出して呼びかけたけど、ついに応募もなかったとか。
 一方、「マンゴー樹」のほうは同じく伝説で肥大している部分はあるものの、現実に路上で演じられているようです。もっとも、見る見るうちにそこに蒔いた種が芽を出して成長していって、花咲き実がなる、なんていうものではなく、路上に立てた三脚に覆いをかけ、その覆いをはずすたびにマンゴーの木が大きくなっているのを見せるんだとか。ま、これならそんなに腰を抜かすほどのことでもなさそうだ。

 今年の横浜の大道芸に、ついにその伝説のマンゴー樹トリックが登場することになりました。わくわくと期待に胸を膨らまして、友達と一緒に馬車道に駆けつけます。パフォーマーは当然インドの魔術師。その名をイジャムディーン氏といいます。
アジア人特有のクセの強い英語をあやつりながら、前芸でチャイニーズステッキや袋卵なんかを見せてくれました。途中、観客の中の女の子を呼ぼうとしたら、お母さんに抱きついて泣き出してしまったときは困ったような顔をしていましたが、しかし路上に伏せたカップアンドボールはなかなか見事な技でした。チョット珍しい技法もあったような?

 さていよいよトリネタの「マンゴー樹」です。アスファルトの上に高さ1メートル弱の三脚をたて、その下になにやら缶みたいなものを置きます。そして三脚の上にやたら大きい黒い布をかけ、すっぽりと覆います。覆った後でその布の中に両手を入れてなにやらゴソゴソやっています。これはきっとインドの魔法をかけているのに違いありません。
 魔法をかけ終わって、やおらその布を取り除くと、なんと、みごとに50センチばかりのマンゴーの樹が出現しています。そしてさらにその樹に、大きな黄色い実がなっているのが見られました。ぱちぱちぱち!

 ここではこれでオシマイでしたが、多分、魔法のかけ方によっては、段階を分けて順次大きくさせるなんてことも可能なのでしょう。なんか、解説者みたいな日本人がいて、この樹はインドから本人がわざわざ持ってきたものです、なんて余計な事を言ってましたが、そんな馬鹿なことはない。今まさにここで、インドの秘法によってタネから成長させたことは明らかなのにねえ。気の利かない解説をするものです。
 それに、こんなものを成田で持ち込もうとしたら検疫で取上げられることは明白です。魔法使いだからこそ、ひそかに持ち込めた種から、あっという間にこんな大きな樹に出来た、と言う肝心なところが分っておられなかったのは残念でした。

 シンガポールに住んでいた頃、住宅街の街路樹にこのマンゴー樹が多くあり、路傍に沢山の実がなっている姿を良く見かけました。これは政府の財産であって勝手に取ってはいけないとのこと。知らなかったけど、マンゴーって「ウルシ」の仲間なんだってね。

 しかし、私の行きつけのタイ料理屋は、料理もうまいけどデザートに出てくるマンゴーがまた特別うまかったな。ああまた行きたくなった。マンゴー手品なんてどうでもいいけれど。

その21「テレキネシス」 (2007/5/28)

 テレキネシス、一名サイコキネシスまたはサイキック。これを「観念動力」と訳すと、いかにももっともらしい超能力に聞こえるけど、さらに省略して「念力」と言うと、とたんに安っぽくなる。ま、どっちにしても、物に触らずに意思の力だけで動かしたり破壊したりする能力のことです。エスパーの世界ではもっとも花形の能力ですね。
 世に数あるエスパーの話の中では、私には漫画の「幻魔大戦」と言うのが格別に面白かった。宇宙を破壊する幻魔大王の魔の手から地球を救うため、エスパーたちが集結して戦いを挑む。波乱万丈のサイキック戦争です。表面には出てこないけど、その幻魔の正体は実は「時間」だ、なんて所も何か哲学的な様相もありました。

 さて今、この「念力」というのは、マジシャンたちの得意分野です。大昔からある「動くマッチ箱」なんてものだけでなく、空中に紙幣を浮かす。グラスに手をかざすと、突然コッパミジンに砕ける。立てかけてある木材が反対側にゆっくりと倒れる。シルクは空中を飛び、テーブルはふわっと浮き上がる。先端技術やアイデアの発展に伴って、マジシャンたちのテレキネシス能力はどんどん上がっていきます。
 ユリ・ゲラーという、手品がうまいのかどうかよく分らない手品師の登場以来、スプーン曲げというのが一時大変はやりました。あれもまた「マジック」ではなく「超能力の実演」と言う触れ込みでしたが、それ以後、超能力というとなぜか必ずスプーンを持ち出すのも不思議ですね。別に何でもいい訳なんだが。それに、ほんとのテレキネシスだったら、何も手で持ったりなでたりする必要なんかなく、ただ睨みつければいいはずなんですがね。(ところであの、関口とかいった当時少年は、その後何か悪い事をしてつかまりましたね。超能力者だろうがナンだろうが、ガキのうちからチヤホヤされたらろくなことはない。)

 「ハンドパワー」と言う言葉をはやらせたマジシャンもおりました。マリックさんを本当の超能力者だと思い込んでいる人も、当時かなりいたようです。言葉の選択と言うのは実に重要で、あれを「念力」と言う手垢のついた言葉で演じたのでは、あの方はあそこまでは売れなかったでしょう。印象的なパフォームのためには、適切な言葉の表現はマジック自体と同じくらい重要です。やはり才能なのですかね。マジック自体もそうですが、演技・演出にも、独創性というのが大切なのは言うまでもありません。
 また一方で、言葉と言うのはすぐに古くなる。にわかサイキックで、シロウトが同じように浮揚のマジックなどをやって、「ハンドパワー!」などと胴間声を出している人をいまだに見かけますが、なんか二番煎じの感じでさほど受けているとも思われません。やはりあの言葉と演出スタイルは、マリックさんだけのものなのでしょう。

 では、ここでワタクシの独創性あふれるサイキックマジックを一つ。
 ティッシュを丸めてテーブルにおきます。両手をかざしてオマジナイ。なんと!そのティッシュがそろそろと動き始めるではありませんか! おやおや不思議だなあ!
 え?見えない糸だって?余計な事を知ってますね、お客さん。でも、そんなアヤシゲなものは使っていませんよ。ほら周りに手をやってみてください。なにもないでしょ!

 あれ?モシモシ手品師さん!ティッシュから何か這い出してきましたヨ。これって、もしかしたらカナブン?!

その22「法術」 (2007/6/4)

 今でもこんな言葉が使われているのかどうか分りませんが、学生の頃には危険術を「法術」と称していました。今国語辞典を引くと「方術」と出ていて、「仙人が使う不思議な技」となっています。「法」のほうは、なんとなく仙人より修験者が使う術のような感じですが、どちらもあまり実態はなさそうで、まあ似たり寄ったりなのでしょう。

 大学奇術部の頃、先輩にこの法術をやる人がお二人いました。O先輩のお得意はカミソリです。始めて見たとき、糸に縛られたかみそりの刃が、口から一枚ずつピロッと出てくるところでは、背筋がぞくぞくっとしたのを覚えています。今にも口の辺りが切れそうで、見ていてあまりいい気持ちのするものではありません。
 昔は針を飲み込んで出す、という技があったようなのですが、やはりカミソリのほうが現象としても迫力があります。同じ奇術といっても、きれいなハンカチが次々出てくるのなんかに比べたらその妖しさ、いかがわしさはえらい違いです。
 なにしろ、妖しげなもの、いかがわしげなものにはすぐに関心を持つたちなので、直ちにこれを覚えようと思いました。
 今一人、J先輩の得意技は火吹きです。これは炎ではなく、口から火花をゴオッと何度も吹き出します。ステージを若干暗めにするとその迫力は大変なものでした。この先輩は卒業後、某大銀行のトップにまで上り詰めましたが、まさか余興でこんなものをやったりはしていなかったでしょうけれど。

 さて、火吹きのほうは別の方法を用いることとして、当時の私のステージです。
 幕が上がると、やや暗い舞台中央テーブルの蝋燭に火が灯っています。そしてもう一つ別のテーブルが離れておいてあり、その上にグラスと、なにやら皿が載っています。
 音楽と共に演者が登場。やおら蝋燭に右手をかざすとその片手がボオッと燃え上がります。客がぎくっとした瞬間、左手をつけると同じく左手も燃え上がります。演者は炎に包まれた両手を表裏かざして見せます。これは出場直前まで水でよく冷やした両手を、一瞬ベンジンに浸して登場。変なギミックなどは使わず、実際に素手が炎に包まれているわけです。ナニほとんど熱くはないのですがね。
「をんばらだやそわか!」と、真言の呪文を唱えれば(^。^)

 次にテーブルの白紙を取上げ、1枚のカミソリでこれをスッと切って見せます。このカミソリをそのまま口の中に入れてしまうところがミソ。続いて5,6枚のカミソリを同じように切れる事を見せてからその都度1枚ずつ口に入れます。つまりすり替えてなんかいない訳だ。
 このあと、糸を飲み込んでこれを引き出すと、1枚ずつつながって出てくるのはおなじみの現象。ネタの構成は結構考えました。でも、社会人になってからやった時は1枚ずつ入れていません。もう恐くなっていたからね。
 この後、綿に火をつけて火炎のお手玉。そしてこれをパクパク食べてしまいます。やおらグラスから水を含んで口をぬぐい、さてフィニッシュです。
なんにもない空間に口から霧を吹きますと、その霧に火がつき、舞台が火炎で包まれます。自分で言うのもなんですが、結構迫力があったでしょうね。こんなのが手品かどうかは定かではありませんけれど。火種は客から見えない位置に隠しておきました。

 知恵ある先輩がつけてくれたステージタイトルは確か「心頭滅却」。
 本で名前だけ知っていた高木重朗さんが見に来てくれており、「すぐにもキャバレーかなんかで稼げますよ」なんてお世辞を言ってくれました。

 この時そっちのほうに行ってればねえ。この年で有名なマジシャンになっていたか、さもなければ、うーん。せいぜい寅さんの子分ぐらいにはなっていたかも。
 アニキ! あしたはどこの街で「火吹き」でしょうかね?

その23「うさぎとかめ」 (2007/6/11)

 ウサギと亀の話はみなさんご存知の通りです。
「もしもしかめよかめさんよ。世界のうちでお前ほど 歩みののろいものはない」

 しかし、私は以前から不思議で仕方がなかった。亀はどうしてウサギの挑発に乗ったのか。挑戦を受けた時点で、亀にほんのちょっとでも勝算があったとはとても思えない。ウサギがかけっこの途中で寝てしまったのは全くのハプニング、つまり、予想外の出来事であったはずです。しかも、どうやら挑発に乗ったのではない、むしろ亀のほうから積極的に挑戦しています。
「なんとおっしゃるウサギさん、そんならおまえとかけくらべ むこうのお山のふもとまで どちらが先に駆けつくか」
おいおい、亀さん、大丈夫かよ!

 誰だってこの時点で予想される結果は、当然かめさんは大負けに負けて、またしてもウサギの嘲笑を浴びるしかないことは明白です。それにしては亀さんは満々の自信で、圧倒的強者に挑戦しています。これはいったいどうしてなんだろう? 
亀さんの自信は一体どこから来ているのか?考えれば考えるほど不思議です。それも、やってみなけりゃ分らないですよ、と言う態度じゃないですものね。このせりふはどう見たって、自分が必ず勝つと言う結果を知っているとしか思えない。

 仮に、亀さんに幾分かの勝算があったとすれば、なんかのウラ情報を手にしていたか?例えば、(この相手は夕べ無理をしているからすぐに眠くなるはずだ)。しかしこれだって、勝つ確率は極端に低い。あれほどに自信あるせりふを吐くには、もっと確実な手を打ってあったとしか考えられません。
そうでなければ、仮に結果が勝利であったからといって、これはただのバカに過ぎません。冷静に考えれば99パーセント負けると分っている戦に、1パーセントの僥倖を頼みに、満々の大和魂だけを持って突っ込んでいく。どこかの国の大本営みたいです。でも、賢い亀さんがまさか大本営みたいなことであったはずはない。

 一方、これをウサギのほうから見てみると、おかしなやつだな? 絶対に勝てないことは分っているのに妙に自信をもっている。これはなんだ?と言う事で疑心暗鬼になっていたかもしれない。でもそうだったらますます油断なんかしないだろうしね。
 どうも事情が思いつかないんだけど、せいぜいこんなところだろうか?
きっと、二人がしゃべっているときにウサギさんは何かの草なんかを食べていたんだな。そして、その草はきっと、すぐに眠くなる草だと亀さんは知っていたのに違いない。
元はギリシャの話らしいけど、レタスなんかよりずっと睡眠効果のある野草が、昔のギリシャにはあったのかもしれません。それだったら欲しいですねえ。最近眠りが浅くなって困ってるんだ(^。^)

 イソップの訳本では、このお話は、真面目にコツコツやっていれば最後には強い相手にも勝てるんだ、などという教訓で締めくくられているけれど、そんな事をまともに信じる人もいないでしょうねえ。亀は負けるに決まっているよ。
 一方で同じイソップ物語の中には鷲とカラスの話なんかがあり、こちらのほうはカラスが無謀にも鷲に挑戦するけど惨めな結果に終わり、身の程知らずの行為はいけないと非難されています。昔のギリシャ人の知恵もなかなか複雑で、一筋縄ではいかないようです。

まあ、手品なんぞは別にだれかれに挑戦したりされたりするモンじゃないから、のんびりいきましょう。のんびりと。
あれれ?マジックテーブルの陰からウサギが逃げ出しましたよ!大変大変。

その24「立食パーティ」 (2007/6/18)

 かなり前、昔の知り合いの集まる立食パーティに行ったときのことです。六、七十人ぐらいいたかなあ。飲んでしゃべっているうちに、出席者の一人が、余興としてマジックをやるとアナウンスがありました。おやおやと思っているうちに、がやがやざわざわした一同の前にAさんが立ち、やおら取り出だしたのは「松竹梅カード」です。どこかのマジック教室などに参加して、覚えてきたばかりと言った初々しい風情です。

 「一枚目のカードは松です」などと言っているようですが、残念ながら聞いているのは前のほうに立っている十人ほど。私は真ん中あたりに立っていましたが、良く聞き取れない。そりゃあそうです。みんなわいわいがやがや、大声でしゃべりながら飲んだり食ったりしていて、前のほうのチャチな手品なんぞに関心は無い。
 Aさんは一生懸命竹を出したり梅にしたりして、大汗をかいておられるようでしたが、何か気の毒な感じでした。元々小柄だし、それにあんまり声の通るほうではなかったしね。それでも一通り松竹梅のカードがそろい、前のほうの拍手をパラパラともらって、恥ずかしそうに、そしてうれしそうに引っ込みます。出し物はそれだけのようでした。

 この席にはたまたま、私がマジックをやると知っている人が誰もいなかったのは幸いでした。困りますよね。もし私が予め頼まれていたら、音楽を少し大きくかけてもらって、全くしゃべらずに、リングかロープをチョコっとやって終わりにするところです。
 マジックをやる状況もいろいろありますが、ステージなども特に無い、多人数の立食パーティの席と言うのは、最も条件が悪い場所のように思います。私も何回かは経験がありますけれど…。まあ、どうせコチトラは素人ですから、別に大受けが期待されているわけでもない。しかし、やるのであればそれなりに、注目され楽しんでもらいたいと言う気持ちはありますよね。立食パーティの席では、ほとんど不可能に近いようです。特に、しゃべりながらやるヤツは。

 かの昭和の大名人古今亭志ん生ですら、巨人軍の優勝パーティかなんかで誰も聞いてないのに腹を立て、思わず大声を張り上げて脳出血で倒れたことがあるくらいです。そんな場所で志ん生に落語を頼む主催者の神経もひどいものですが。
 場所と状況に応じた演目を選ぶ、と言うのは大変大切なことですが、それにはいろんな種類のレパートリーを増やさなければなりませんね。まあ、それよりなにより、立食パーティなどは避けたほうが賢そうです。君子危うきに近寄らず。
 
 パーティの後半、Aさんが近くに来た時に、つい、「イヤ僕もマジックやるんだよ」と言ってしまいました。 Aさんは、「へえ?じゃ、どうして今日やらないんだよ?」と言って、まあ素人も最近多いからねえ、といった顔つきで私の顔を見上げました。

その25「寝床」 (2007/6/25)

 ご存知の方も多いでしょうが、古典落語の名作に「寝床」があります。
 志ん生、円生、志ん朝など名人上手の録音も多く残されている中に、なんといっても極め付きは八代目桂文楽です。

 人柄のいい大店の旦那、人の面倒見もいいし長屋の貧乏人連中に金を貸すにも、いやな顔一つしない、みんなに好かれている好人物だが、この旦那の唯一の欠点は義太夫です。どうやら昔のお金持ちの道楽として、たいそう人気のあったものらしい。それも聞くほうじゃない、みんなを集めて自分がウナって聞かせたがるのが実にどうも困ったもの。
 しかもこれがどうやら並大抵のヘタさではない。旦那の「お浄瑠璃の会」ってえと、お店の奉公人や長屋の連中の恐怖の的。「これさえなければあんないい旦那はいないんだが」と長屋でモッパラの評判です。
連中も本音ではそう思いながらも、面と向かっては、いやぜひ聞かせてください楽しみだ楽しみだと持ち上げるので、旦那はますます天狗になる。すっかり、皆は喜んで聞きにやってきていると思い込んでいるようで、ここらあたりがまた無邪気で人柄のいいところです。まとにかく、人様を集めて自分の「芸」を聴いていただこうって寸法だから、その接待振りも半端じゃない。

 さあ、今日は久しぶりの晴れ舞台。朝から料理人を呼んで本格的なご馳走を作るやら、酒、お菓子など至れりつくせりの準備万端。お師匠さんも出張ってきて三味線の調子あわせに余念がない。さてさて準備もよろしく、店の者に自分の持っている長屋を一回り廻らせたところ、なんとなんと、みんながみんな都合を言い立てて一人も来られないとのこと。
 豆腐屋はあしたの朝までにがんもどきを三百五十も作らなくちゃならなかったり、鳶の頭は成田で揉め事が発生したり、提灯屋のおかみさんは急に産気づいたり、アチコチでえらい騒ぎだ。おまけに店の者はってえと二日酔いやら脚気になったり眼病になったり、さらに奥方は義太夫の会があるって聞いたら、急に里に用事が出来たりする始末です。
 結局、誰一人聞きに来ない。さあ旦那はすっかり怒ってしまった。料理はみんな捨てちまえ、見台なんか踏み潰せ、店のものにも全員暇を出す、長屋の連中は今夜中にみんな出て行けと、いやはや大変なご立腹です。
 ここからが名人中の名人八代目桂文楽の聞かせどころ。知恵ある苦労人の番頭にだんだんなだめられていくあたりは、何度聞いてもおかしさがこみ上げてきます。聴いたことのない方はぜひお聞きください。決してご損はさせません。

 とまあ、長々と落語のストーリーをご披露したのは何のためか。
そう、お察しの通り。私なんかの「シロウト手品」の会も、まあ、半分ぐらいは「寝床」なんだろうなあって思っているのではありますがね。このところ。
でまあ、それでいいんだろうなあ、と思ってもいるんですがね。

(え?また植松さんたちの手品の会だって?そうねえ。行ってほめてあげなきゃねえ。)
「ぜひぜひ。チケットよろしく。ワア楽しみ!」

別にご馳走なんか用意はしませんけれど。

その26「蜜蜂」 (2007/7/2)

 多分新聞記事か何かで読んだ話です。
 蜜蜂だったか蟻だったか、昆虫の群れをよく観察すると、せっせと働いているのは全体の二割、後の八割はただ周りでうろうろしているだけで、特に有効な働きはしていないのだそうです。まあ、なんとなくねえ、そんな話を聞くとそんなものだろうなあ、と思わせるところがありますね。会社員やら公務員の方なんかニヤっとしそうな(^。^)

 で、今度はその優秀な二割の選手だけを取り出してきて一つの群れを作ってみる。つまり、オールスター選抜軍の編成ですね。すると、その選抜選手の群れの中で、やっぱり二割だけが働いて、もとの優秀選手のうち八割は、ただまわりでうろうろするだけになってしまうのだそうな。なるほど、これは面白い。
 一方、置き去りにされた元のダメ軍団八割選手たちは、遊び暮らすやつばっかりですっかり「ダメ群れ」になってしまうかというと、そんなことはない。驚いたことに、その中で新たに二割の蜂が働き始めるんだとか。コリャいけないってんで、心を入れ替えるんだろうな、きっと。そりゃあまあ、さもありなんとは思いますね。みんなが遊び人ばっかりで群れが飢えて死に絶えた、なんてことは起こりそうもない。人間だったらそんな馬鹿なことも多少はありそうな気もするけれど。

 ところでこの八割選手たちも、ただうろうろしているだけのように見えるけど、実は群れの中で何らかの役割を果たしているのかもしれない、そこはまだ分らないけれど。と言う風に、この記事は結ばれていたような気がします。二割の優秀選手たちが働きやすいように、情報伝達やらロジスティックスなどを担当しているのかな?しかし、昆虫学者か何か知らないけれど、よくまあこんな事を観察したものです。えらい物だ。
 ともあれ、一つの群れは実際に二割の選手が有効な働きをすれば、群れの機能としてはそれで成り立つようだ。してみれば、よく言われる、少数精鋭だけで部隊編成する、なんてことはあまり意味はないのかもしれない。

 まあそういうことだとすれば、ですね。
最初に八割に入っていたうろうろボーイのうち、優秀軍に抜けられた後あわてて働き始めるやつがいるかと思うと、やっぱり依然としてのんびり遊び続けているやつがいる。で、働き始めた次の優等生二割をまた抜き去ってしまったとして、こいつはまだのほほんと遊び暮らすほうに所属している。つまり、二割ずつ二割ずつ、働くようになったやつを抜き出して行ったとき、最後まで働こうとしないやつってのがいるわけだ。なんとなく親近感がもてるなあ、君には。ねえ、のび太くん!
 一方、また逆もいるはずです。あっぱれ優秀軍団の中に入ると安心して、「ああ、今度はあいつが働くからオレはいいや」などと、これまでの働きをやめてグータラし始めるやつがいるかと思えば、どこだろうがお構いなしに、相変わらず汗水たらして働くやつ。そして再び優等生として名誉のピックアップをされても、またまたその二割のうちに入って働き続ける。どこまで行っても気を休めずに働くやつですね。いやいやご苦労様。立派な蜂だねえ、君のおかげでみなが助かってるんだ。ほんとに。

 さてこんな話、手品と何の関係があるのかって?
いや、ないんです。まったく。今日は「手品の周り」ではなく、ガラにもなく「社会学」のお話でした。失礼しました。

その27「ゾンビ」 (2007/7/9)

 ゾンビボールというマジックを最初に考え付いた人は偉い。本当に。
 モノの本ではJOE KARSONという米国のマジシャンだとありますが、固有名詞を言われても特におなじみではないため、へえそうかいとしか感懐はないけれど、これは真に独創のマジックだと思います。一つのトリックが単発的な現象でなく、それで一つのジャンルが出来上がってしまった、って所は本当にすごい。

 ま、とりあえずそれはそれで置いといて、と。ここでは本物のゾンビについて。
 ゾンビとは死に切れないものの事のようです。どうやら中米西インド諸島のほうの伝説らしい。同じ「イモータル」でも、トランシルバニア御出身の吸血鬼とはちょっと違う感じです。映画なんかではジョージ・ロメロ以来ごっちゃになってるようだけど。
一応いったん死んで埋められたものの、死ねないためにのこのこ墓場から出てきてまごまごしている、という想定ですね。ホラー映画って言うのは好きじゃないけれど、おどろおどろしいポスターを見かけます。  
 それも、だれそれに恨みがあるから生き返るんじゃなくて、ブードゥー教でのろいをかけられた結果、ただ死ぬことが出来なくなっただけという、まことに宙ぶらりんで本人も困っている状態のようです。やけくそで、どうも、人間に食いついたりぶん殴ったりするようだ。それもまた困ったものだけど、死んだときの形態を保ったままよみがえってくるのが迷惑なところですね。ミテクレが悪いし。
 日本の幽霊とはかなり違います。幽霊は必ずしもボディにこだわらない。体自体はどっかに埋まっているんでしょうが、そんなものに特別の執着はないらしく、怨みのある人のところへ忽然と現れる。また、怨みとは関係なく、柳の木の下なんかにも出現して無関係な通行人を驚かしたりするそうですが、これはちょっと意味が良く分らない。たぶん本人もよく役割を自覚していないまま、意味もなくはた迷惑な事をやっているんでしょう。

 いずれにせよ、幽霊は怨みつらみをひたすら申し述べるだけで、物理的な悪さはしないようです。幽霊に噛みつかれたり引っかかれたりしたなんていう話はありません。だからほっといても別に害はないので、落語などに登場する幽霊も、どちらかって言うと愛嬌があるのが多い。「へっつい幽霊」やら「三年目」「野ざらし」なんかそれぞれいい味の幽霊です。
 ゾンビにしても幽霊にしても、それぞれの精神的風土の上に生まれているのでしょうが、どうも、西洋のゾンビは物理的な存在で、日本の幽霊は精神的な存在(?)のように思えます。西洋のゾンビはちゃんと自分の足でドタドタ歩き回っているみたいだが、日本の幽霊には足なんかも要らないので、ふわふわとあちらこちらに漂っています。してみると、このゾンビボールっていうマジックは、西洋のゾンビよりは日本の幽霊のほうに近い感じですね。あちらの「ゾンビ」にはふわっと浮き上がるなんて芸当はなさそうだ。
 もっと言うなら、幽霊よりもさらにこのマジックに近い現象は「人魂」、または「火の玉」のようです。「火の玉」と幽霊は直接の関係はなさそうだが、たぶん親戚筋ぐらいには当たるのでしょう。真打の幽霊が出る前の前座を務めているようでもあります。いや、露払い太刀持ちかな?
 「火の玉」ってのは墓場などにある燐が燃えるんで、実際にあるのだという説を時々目にしますが、そんならおんなじ土葬時代の西洋にだってありそうなものだけど、どうも日本に特有のものらしい。和英辞典で火の玉って引くとファイアーボールと出てくるが、これはちょっと違うものの感じです。
いろいろ考えると、実態のゾンビとマジックのゾンビボールはずいぶんかけ離れたものなのに、どうしてこんなネーミングにしたのかと思いますね。

 ともあれ、ふわふわふわふわと、光り輝く金属のボールがステージ上をあちらこちらと漂う姿は、時にミステリアスに、時にユーモラスに、幻想的な空間を現出します。うまい人が演ずると、本当にボールに生命があるように見えますものね。
 そしてゾンビボール応用編では、ノーム・ニールセンの「バイオリン」、幸條スガヤさんの「荒城の月」、この二つが双璧で、どちらもため息の出るような見事な演出でした。

その28「100円ショップ」 (2007/7/16)

 最近の百円ショップの隆盛には驚きます。あの商売が始まった当初は品物も悪く、まあそれなりって感じでしたが、いまは諸道具から日用品、文房具など、品物も豊富で品質もどんどん向上しています。家庭内で必要なものだけでなく、ちょっとした手作りマジックの材料をそろえるには、たいてい百円ショップで間に合う感じです。

 さてこの商売の形態は、「ダイソー」などが最近開発したのかと思っておりましたが、先日、三谷一馬「江戸商売図絵」と言う本をぱらぱらと眺めていたら、なんと、これは江戸時代からあるのですね。(これは面白い本で「江戸吉原図聚」と並んで私の愛読本です。ったって、まあ絵ばかりですがね。)
 享保七年といいますから、八代将軍吉宗の時代です。江戸の街中に「十九文店」と言うものが現れました。もっとも、これはちゃんとした店舗ではなく街頭の出店ですけどね。今でも、駅の近くなんかで道端に商品を並べていますが、ちょうどあんな感じです。当時の図で、「なんでもよりどり」などと書いた看板の下に雑多なものが並べられ、隅っこに親父が座っています。
 くし、かんざし、キセル、器類、刷毛、財布、金網などなど。といって別にこれは落語などでおなじみの古道具屋ではなく、やはり新品の均一セール、今とおんなじですね。全く。さすがにプラスティック製品はないけれど(^。^)

 当時の十九文、というのは正確な換算は難しいけど、夜鷹そばがご存知二八そばといって十六文でした。一文がざっと25円見当でかけそば一杯が400円ぐらいとすれば、つまり、「十九文店」は五百円均一ショップですね。さすがに「四文店」ではなかったらしい。
当時は商人と言うのはたいてい単品を仕入れ単品のみを扱うのが普通でしたから、これはある意味画期的な商法だったのかもしれません。今と違って多品種仕入れなんかはさぞかし大変だったと思われます。電話もなければ車もない。もちろんネット発注なんて存在しない時代ですからね。
 これが九十年ほど経った文化七年には「三八文店」になって生き残っています。やはりインフレになって貨幣価値が下落したんでしょうが、百年近く経ってなおビジネスとして存続しているってのは立派です。いずれにせよ、ダイソーのビジネスモデルは既に江戸の昔に存在したわけだ。
 100円ショップも今の社会に完全に定着したように見えますが、またインフレなんかになったらどうなるんでしょうかね。

 プロマジシャン藤原邦恭さんは大変なアイデアマンですが、御著書に「100円ショップで手作りマジック」があり、全ての材料を百円ショップでそろえるマジックが沢山紹介されています。
 江戸の手妻師なんかも「十九文店」あたりをうろついてヘンテコな筒なんぞを仕入れ、これを加工してクスダマやらウサギなんかを取り出したりしていたんでしょうかね?

 さてお立会い。これなるタネも仕掛けもない筒をば取り用い…
 いよっ待ってましたっ! 太夫っ!

その29「ジニー」 (2007/7/23)

 アラビアンナイトの3大スターと言えば、言わずと知れたアリババにアラジン、それにシンドバッドです。子供の頃から、この3人のお話は絵本などでおなじみでした。
シンガポールにいた頃、クラブのあるマジシャンは、マジックの呪文に「アブダカダブラ」なんて言わず、「アリババ!」なんて言っていました。西洋のマジシャンでも、こんな呪文を使う人がいるのでしょうかね?なんかヘンテコな感じでしたがね。

 さて3大スターの一人、アラジンがランプをこすると、そこに出現するのはGenie(またはGenii)です。英語のGenieは「魔法使い」とはだいぶ違った語感です。日本では「魔神」とか「ランプの精」とかと訳されますね。
 辞書を引くと、他にGeniとアタマに付く単語は、Genitalが生殖器、Geniusが天才・創造的才能などで、どうやら物を新たに創り出すような意味合いを持っているという感じがします。 ジニーは、西洋の「魔法使い」と違って、人間世界に悪意を持っているようなものではなさそうです。ちっぽけなランプの中に閉じ込められて困っていたなんてところも、なんか愛嬌がある。しかし、古びたランプの中に、何かを生み出すものが住んでいる、というのも、何だか奇想天外ですね。

 どうしてランプなんかに巨大な魔人がいるのか、妙なことだと思っているとき、ふとこんな事を思いつきました。とにかく、電気がなかった時分は、夜は全くの闇だった。そんな真っ暗な部屋の中でランプに火をつけると、その灯によって、人間の姿が大きな影となって壁に映ったはずです。
 ランプに火を入れるたびに、必ず後ろの壁には大入道の姿がゆらゆらしていたに違いない。そのイメージが膨らんでランプの中には魔人が住んでいる、なんてことになったんじゃないだろうか? うん、きっとそうに違いない。(なんて、勝手に決め付けられるのがこういう個人の戯文のいいところ)

 岩波新書「アラビアンナイト」によれば、このアラビアンナイトが日本で始めて翻訳されたのは明治八年。そのタイトルは「開巻驚異暴夜物語」だそうな。ただしこの時にはアラジンの物語は入っておらず、この話は更に二年後の明治十年、「亜丁刺(アラジン)物語 一名怪シノランプ」として別途翻訳紹介された由。
 明治十年といえば、ご存知西南戦争でワッショイワッショイ大激戦をやっていた年ですね。雨は降る降る人馬は濡れる。新興明治国家が崩壊するかどうかの大騒ぎのときに、かたや、のほほんと「魔法のランプ」なんて気楽な話を楽しんでいた連中もいたわけだ。いやいいことですなあ。

 今、雑誌「Genii」の編集長は、おなじみリチャード・カウフマン氏です。この人手品のセンスもなかなかいい方ですし、それに日本びいきのようですね。先月号でもトンさんのこと、なにか触れてました。でもほんと、毎月あれだけの記事を作るのは容易じゃないでしょうね。
 あんまりそっちが忙しくって、肝心のご自分の著作のほうは一休みになってるみたいだけれど。ラリー・ジェニングスの続編はどうなっちゃったんだ?カウフマンさん!

 でもさすがに本物の「ジニー」みたいに、あっちもこっちも呪文で片付けるなんてわけには行かないんだろうな。やっぱり。 

その30「風船」 (2007/7/30)

 風船を使ったマジックも数多くありますね。
 串刺しにしても割れない。割ったら瞬間に色変わり。なんと、風船の中にシルクが飛び込む。風船が空中に浮く(って、なんとなくあたりまえか?)。風船を割ったら客のカードが一瞬で出現。中には長い風船を先っぽから飲み込んでしまう人もいます。あれは胃袋からその先まで一直線になっちゃってるのかな? まあ、人間の腸ってのは随分長いらしいから、訓練すればあんなことも可能なんでしょう。きっと。(^。^)

 しかし、子供たちに一番受けるのは、手品でもなんでもなく、例のワン君作りです。
あるとき、当会の手品の名人とご一緒したことがありました。私が何かちょろっとやって、後はたっぷり名人の出番。名人はなにやらすごい事を一杯やるつもりか、胸や腰やらにアヤシゲな仕掛けをしこたま詰め込んで、さてスタートです。この時は野外の小さなステージでした。客はその辺をぶらぶら行ったり来たりしています。そこで、イントロに客集めのおつもりでしょう、風船を膨らませてワン君を作り、それを近くの子供に上げようとしました。

 一匹目のワン君がキュッキュッキュッとめでたく出来上がり、これを近くの子供にハイってさし上げたところ、大変なことになりました。その辺にいた子供がわっと集まってきて、私にもボクにもと大騒ぎです。こうなればもう仕方がない。
後はなるようになるしかありません。次々次々、延々とワン君を作り続ける羽目になりました。何匹も何匹も。この時は、手品の名人は予定の時間全部を使って、ひたすら風船ワン君を作り続けました。律儀実直、そしてにこやかに、ね。
だいたい、この方は名人のくせに手品をやるのはいつもメンドウらしい。やらなくてすむならそれに越したことはない、ってな態度が多い方です。まあ、別にわざわざコメンドウな手品なんてやらなくたってねえ。そこに集まった子供たちが十分喜んでくれれば、主催者側だってそれでいいわけだ。
目的を無事果たして名人のステージは終了します。大汗かいて、いろんな仕掛けは全部アチコチに眠らせたままで。ハトがずっとおとなしくしてたのかどうかは知らないけれど。
 といって、風船を作ってついでにハトなんかがドタバタ出てきても、子供たちは目を白黒させるだけだろうけどね。

 横浜の大道芸で見た風船作りはすごい技だった。長い風船を膨らませてキュッキュッとひねっていくと、いつのまにか一部がちぎれて玉になっている。それはいいが、その球になった風船がもとの長い風船の中に入ってしまってふわふわ漂っている。あれよあれよと三つの玉が出来、それが全部もとの風船の中に入ってしまっている。これには驚きました。
まだ若い芸人さんでしたがね。ここでもまた、大道芸恐るべし、でした。

 私自身はようやく基本形のワン君が作れるくらいですけどね。本なども結構出ているし、もっといろんな形を覚えておこうと思っています。
 マジックをやられる方なら、これはやはり覚えて置いて損はないですね。いろんな場所で応用が利くし、それに第一、ほら、あなたのマジックよりはよほど受けそうだ。(^。^)

その31「胡蝶の舞」 (2007/8/6)

 『胡蝶の舞』というマジックは良くご存知でしょう。紙でこしらえた蝶が扇の風に乗って舞台をあちこちと飛び回る、幻想的な和妻の演目です。
 「え?あれってマジックなの?」

 奇術関係者は『胡蝶』を普通にマジックの演目だと思っていますが、一般の人はあれはマジックとは別の、何か太神楽かジャグリングの系統のものだと思っている人が多いのではないでしょうか。つまり、本当にタネも仕掛けもなく、純粋に技術と訓練によって、扇の風で蝶を飛ばせていると思っている人が大多数なのではないだろうか。そのように見せようとしているしね。この演目はほかのマジックに対する受け止め方とは少し異なっているように思います。
 奇術・マジックというものは、いかに不思議に見えても、どこかにはタネ仕掛けが存在するのだと言う事を、観客も演者も暗黙の了解の上ですね。しかしこの場合多くの人は、蝶が飛ぶのは、独楽回しの独楽のように純粋に技術だけだと思っていますから、マジシャンが不用意に「『胡蝶の舞』と言うマジック」、などというと、かえって驚かれてしまうことになりそうです。「『こま回し』という手品」、なんて誰も言いませんしね。「マジックである」と言うことは、つまりどこかにタネがある、と言っているに等しい。
 ですから、「『胡蝶の舞』と言うマジック」などと言ってはいけないのですね。ほんとは。お客さんの夢を壊してしまうことになりかねません。え?大きなお世話か。

 近頃はマジックショー・発表会と言っても、間にジャグリングなどが入ることが多いようです。どうです、不思議でしょ!なんて事を次々見せられてだんだん疲れてくる中で、ジャグリングなどが入ることで観客もほっとするし、また次のマジックが面白く見られるなんて効果もありそうです。落語中心の寄席の「色物」的な扱いですね。(もちろん、寄席では奇術そのものが「色物」なんですけれど。)
 一つのショーの中で、色物はやっぱりあったほうがいいですよね。マジックショーに出かけて、工夫を重ねたマジックの演目よりもジャグリングの方が圧倒的に面白くて、感動して帰ってきたことも何度かありました。
 『胡蝶』も、“「タネ」のある不思議なマジック”の中に挟まって、幻想的な空間を演出する技術的な演目という位置づけで今後も生き続けていくのでしょう。

 ところで全然関係ない無駄話ですが、「胡蝶」はなぜ『胡』なのかが不思議です。『胡』とは、もともと中国から見てシルクロードの先のトルコやイランなど西域一帯のこと。胡瓜も胡弓も胡椒もみな西域からわたってきたものです。蝶などはもともと中国にも日本にも古来からいたものだろうし、別に西域渡来とは思われないのですがね。
 それとも古代のある時期に、今まで見慣れない“ちょうちょ”が日本に突然海をわたってやってきて、その時分から『胡蝶』なんて呼び名が定着したのかしら?

「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った」

なんてとぼけた一行詩もありましたしねえ。

その32「心筋梗塞」 (2007/8/20)

 心筋梗塞という病名はもちろん聞いたことはあるけれど、いきなりそれで手術なんぞという羽目になろうとは思わなかった。

 どうも朝から心臓のあたりが重苦しく痛い。4、5日前にも同じような現象があったけれど、なんとなく治っていた。ところが今日はいつまでたっても変に治まらない。得意の深呼吸をしようが水を飲もうがアブダカダブラと三遍唱えようがてんでダメである。
 おまじないはあきらめてかかりつけの医者を訪ねると、しかるべく検査・処方などしてくれて、さらに大病院への紹介状などをカタジケナク頂戴することと相成った。
 とりあえず薬ももらったし、億劫だから、「ではいずれ様子を見て」と丁重に御礼を申し上げると、いや今スグ行けとのご託宣。痛い事も痛いのだし、じゃあま、仕方ないか!この際。これでまた名古屋のコンベンション参加はキャンセルかもしれないな。
 アタフタと家に帰るとカミサンは留守。そりゃあそうだ。さっき車で駅まで送って行ったばかりだ。どうせすぐ治るだろうと思っていたので、痛いとかなんとか自己申告もしてなかったし…。

 さてさて着替えや本などペラペラバッグに詰め込んで、タクシー呼んでノコノコと指定の病院までやってきた。
 検査とはすなわち、心臓の中まで管を突っ込んでアヤシゲな所を探すのだそうな。なるほどそりゃあ確かだろうけど、なんとなく恐ろしい感じもある。後で知ったが、この病院は、いわゆるカテーテル治療では日本でも有数の病院らしい。循環器科の部長は心臓外科の世界的な権威の由。
 さてそのクダなるものをどこから突っ込むのかも定かでないまま、おとなしくマナ板の鯉となった。奇術「人体切断」のネタっ子の形である。威勢のいいお兄さんや、美人やらそうでない人やら、大勢が寄ってたかって何やらバタバタしているが、どうやら皆で私の右手首を狙っているようだ。心臓は左にあるはずなので、不審な事だとは思いつつも、教えてやるのも失礼なのでおとなしくしている。もともと控えめな性格でもある。
 麻酔などしたのかどうか、右手首に針を刺したことは分かるが、それ以